飛んで火に入る夏の。【#あの選択をしたから/参加記事】
※ここでいう子猫とは、いわゆる子猫ちゃんの意ではないです。
・吾輩は子猫である(三つ目の選択から書く)
あの頃の私は、人じゃなかった。
猟奇的とか、サイコパス的な意味ではない。
どこにいても、誰と話していても、小さい小さい子猫だった。
成人してからの私は、行動だけは大胆だった。
自由を求めていたし、当時は家庭という檻から逃げたい一心だったから。
どこかに辿り着いても、安心を得られなければ、すぐに別の場所を目指した。
同じ場所にいても何も起こらないという事だけは本能的にわかっていたから。
でも心は常に怯えていて、とにかく休める場所を探していた。
休む場所なんて元々なかったのだと、今ならわかる。
どんな時も人は力強く前に進むしかないのだけれど、私にはその力がなかった。
私はあのまま死んでしまう側の人間だったはずだ。
安心を求めて笑顔を振りまくことしかできなかった私の周りには、いつも色々な優しさがあった。ひどく冷たい事をいう人も含めて、私は様々な経験に生かされて、世界に試されていたのだと思う。
人を信頼せよ。嘘を見破れ。裏切りは許せ。優しさは受け取れ。
そうしないと、子猫はいつまでも信頼されないし、誰かを癒す事もできない。
消費され、嘘を見抜けず、裏切りに挫折する。
それでは生きていけない。
人の優しさと冷徹さの向こうの世界には、幸いにも刺激が溢れていた。
私は自分の原動力はこの刺激なんだと気づき、安心を探求する旅を捨てて、刺激から何かを得るという旅に出た。でも小さい子猫でもあった私は、気づいたらボロボロになっていた。
不器用で無知で向こう見ずだった。
それを心配して誰も止めなかったのは、私が旅に出る事を誰にも明かさなかったからだし、それでよかった。
なぜかは、今でも分からない。
心の旅を続ける中で、あの頃の自分は(個人的には)順調だった。
闇の中にいたけれど、それ以上に輝いていた。
自分はここから抜け出せる。そんな確信の中にいた。
ふと、目の前のチャンスが跡形もなく消えた時、私は嘆きや諦めよりも先に、自分への怒りが頂点に達し、無理矢理、閉じた扉をこじ開けた。
匙を投げる代わりに、火の中に飛び込む虫になって、自暴自棄の先にあるものを見ようと。危険極まりない。
つまりその時の私は、なけなしのお金で予約した、人生を変えるための飛行機に寝坊をして乗り遅れたのですが、(レイク的な)借金をし、別の飛行機で追いかけるという選択をしたのです。
なぜかは、本当に分からない。
蟻地獄に落ちた蟻が断末でジャンプするような、としか形容できない(原因が寝坊だったからかもしれない)。
でもあの時は、自分の世界線を変えるチャンスがマッハで遠ざかるような感覚があった。
もしかしたら、私はこの選択を何千万回も繰り返しリープしようとしてたのかもしれない。
地上から解き放たれた感覚は最高だった。
その後は順調だったかというとそうではない。
真逆の事が立て続けに起こった。同時に、それに匹敵するだけの体験もあり、陰陽の最大値を常に経験しているような感覚だった。
人生ノートのど真ん中に書かれる経験なのだから、それぐらいのエネルギーの中にいて当然とも言える。
今も、初めての環境では借りてきた猫のようになるし、探り探りでないとすぐ引っ込んでしまう。素の自分でも大丈夫だとわかると、そっと仮面を外す。
初めから大丈夫とわかっていても、私は子猫であると暴露する事から始める。
慣れれば人より早いのだけれど、物覚えも何もかも、最初は極端に不器用だからだ。
子猫の自分は、他の伸ばしたい個性を伸ばした結果、縮んでしまった残り滓のような副産物だと思っている。
副産物でありながら、何気なく選択したひとつでもある。
私は小さい自分をどこかに捨てたり、過去に置いて来なかったのだ。
一緒に行こう。大丈夫だからって。
一つ目の選択
学校を辞めた事。働いてお金を貯めて、東京に行って、専門学校に入って、バンドを組むのが夢だった。バイト代は全てCDになった。初めて東京に行ったのはそれから十年後。その飛行機も乗れないという事態になる。ちなみにバンド経験は元より、ギターも習得していない。
二つ目の選択
元子猫であり、時々今も借りてきた猫になる私は、元来何も選択できないような人間に思える。
実際は、そもそもある選択をしたことで、自分が子猫であるという認識ができるようになった。自分が何であるか、どこか別の世界に漏れ出ていかなければ、怯えている事にすら気づけなかった。
人が人になっていく事は、これまでの自分、今の自分がなんなのか、鏡を見る事から始まる。(鏡を見せても無反応の動物っているけど)
一つ目の選択も、二つ目の選択も、得てして行った訳じゃない。当時は訳も分からずに、ただ何かから逃れていただけに過ぎない。
二つ目の選択をした時、会社員だった私は23歳。
社長にならないかと言われた。もちろん、10年後とか、20年後とか、将来の話。
そこは親戚の会社で、つまりは後継ぎにならないかという事。
小さいながら、今の時代なら涎が出るほど良い待遇をしてもらっていた。
ボーナスも正規の計算でいただいていた。
仕事も特殊で楽しかったし、日進月歩ではあるが、ちゃんと成長してたと思う。
社員は私一人だったので、師匠と弟子のような関係。
休みもしっかりあって、大検もこの時期に取得できた。
スキルアップしながら、行きたい場所、やりたい事も存分にできるのはわかっていた。
なんならこの時期、親公認の婚約者もいた。磐石の限りだった。
その年の冬、私は退職願を出した。
ボーナスをもらう前に。
当時感じていたのは、おそらく安泰への恐怖。
私はレールに固定されるのがどこか恐いと思う方で。
ある程度の冒険はできるかもしれないが、大冒険はできなくなるのでは?
そう考えた。
社長になるという事は、それは生涯を通してという事になる。
一度なってしまえば、決して壊したり潰したりできない。
潰れる恐怖なんてのは、経営のけの字も知らないから感じなかったけど、
会社を大きくして、いずれ誰かに任せるとか、そういう思考回路もなかった。
一生離れられない人生になるという思いがよぎり、それがとても恐かったのだと思う。
退職理由は、"もっと色んな世界が見たい"だった。
婚約破棄していなければ、辞めなかったかもしれない。
結婚前提の同棲生活は、当時まだ気づいていなかった心疾患に悪影響だった。
私は買い物依存になったし、とんでもない自虐行為もするようになっていった。
毎日の同じサイクル、日々のルーティンがどうしても無理だった。
そもそも就職する前は音楽やりたいとか、東京に行きたいとか、夢に溢れていたのだから、どんなに穏やかで安全でも、そこにいられなかったんだと思う。
自分の状態に気づかないまま、関係が破堤した事で初めて、人生について、自分という人間について、考えるようになっていたのかもしれない。
心が安定していて、そのまま結婚していれば、妻として社長として、一生懸命頑張ったんじゃないかと思う。
退職を決めた時は、こういった複雑な考察ができていなかったから、当時の感覚としては、"なんとなく"でしかなかった。
その体裁として、もっと色んな経験がしたいと言っただけに過ぎない。
あの、"なんとなく"恐かったという感覚と、自分で思ってた以上に愛に挫折していた経験が、無意識に自分をどこかへ連れ出そうとしていたのだと思う。
その後のわたし
私は人生のレールを叩き壊したり、できるだけ遠くへ離れようとして、波乱馬上の末に、碌でもない大人になった。
見本にならない大人の見本である。
それに満足しているのだから、耳の痛い思いをしながらも、生粋のバカだなと思う。
私の本質的な経験は、学校でも社会でもなく、ひたすらアンダーグラウンドで見てきた景色の中に集約されている。
そこでも、自分はどこか泥になりきれていなかったと思う。
今もどことなく、まだぬるい人間でいる。
自分が歩んできた道は、誰かを大切に思えば思うほど、お勧めできるルートではない。
生きて生還した私が代わりに見せてやろうという思想もない。
でも、人ってなんなのか、人生ってなんなのか、私は頭が悪いから、普通に生きていたら学べなかった事が、誰かに支えられて、何かに守られて、自分で踏み出して見つけてきた。
そこまでしなくても、これからの時代、自分の自由を追い求められるようになっていくと思う。
人生に保険をかけて、使いきれないお金を稼いで納めて、
何がしたいか分からない、でも不安だから安定だけは確保するというのも、別に悪くなんてない。
むしろ、普通の日々の営みがどれだけ素晴らしいか、今ならわかる。
それでもどこかで、ひょっとしたら老後でも、何か奇跡のような変化は起こるかもしれない。
私はボロボロになったけど、どの傷痕も大切なタトゥーのように思っている。