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承認欲求の果て


過剰な安心欲は不安が増長する

Twitter利用量は日本がダントツに多いらしく、人口減ってるのに?と思ったが、使う人数が増えてるのか、個人の利用時間が伸びてるのか、その両方なのかは分からない。

Twitterをやめて数年になる。Facebookも同様に。
やめた事を知人に伝えた時、"やめる"ものなの?と言われた。おそらく報告するほどのものなのかい?という意味だと思う。
当時はタイムラインに定期で現れなければやってる意味もないと思い、なんかつぶやかなきゃという気持ちになっていた。
自分も自分以外も、いつ何を言ったか今は一つも思い出せないし、当時もどうだったか。
いいねが欲しい訳じゃないんだけれど、自分だけスルーは悲しいから、こちらからいいねを押して、義理いいねを返してもらったり。有効活用にせよ、何にせよ、"そういうモノ"に費やしていた。
ここで得られる安心感は、認知度が上がり続ける事と、いいねやRTの数がそれまでの平均より下がらない事でしか得られなくなるので、生まれる事のなかった不安が増殖していく事になる。
SNSによって無駄な不安に取り憑かれる事がどれほどの事なのか、一つ二つアカウントを削除した所で、ネット中毒者の私は本質的には分かっていない。真綿で首を絞められるような圧と鋭利な痛みの両方を持っているツールであるとは思う。悲しいニュースも知っている。
逃れられない苦しさや、無自覚などもあると思う。
車のスピードが上がっていくのに、さらにアクセルを踏んでしまうような焦燥というか、死亡率(絶望値)が下がるのは、ブレーキを踏む事なのだけれど、何かを錯覚してしまう。
狐に化かされる事にも似ている。

不安から承認を求める行為は、数値次第で自分を着替えるという"自己消失"に繋がっていく。


加速する依存性の威力

依存はそれが何であれ、脳の報酬系回路が関係し、報酬回路は満足する事がないかのように、より容易い快楽を求め続ける。中毒性を持つようになると思考や行動力が衰え、自律神経や筋肉などに支障を来たしたり、不眠や運動不足から食欲が失せたり、ジャンクに偏ったりして、体にも脳にも良くない事ばかりが連鎖していく。
SNS依存は実生活に著しい支障は起こらないし、むしろ快適で、肝臓がやられたりお金が飛ぶように消えたりもしないけれど、重度〜中度の中毒者以外は少ないと思う。
この"疾患"は、短絡思考になってWEB上で他人を攻撃したり、やがてそれがリアルにも影響していく恐れがある。平常範囲に留まるか、悪い方へ加速するかは、個人の環境で全く変わってくる。原因であるSNSは海のように広がっていて、私たちはそこに浸かっているため、取り除くのは不可能に近い。治療対象の部位は、脳である。
治療方法は、陸に上がる時間を増やすか、完全に上陸するしかない。その場合、副作用も離脱症状も長く続く。人によっては永遠に。

私の中の欲求と理性の強さは、ジャイアンとのび太ぐらい違う。時々、ジャイアンがゴジラになる時もある。理性(のび太)が相手の強さに比例してウルトラマンになる事はなく、砂時計のように、相手に吸い取られるような構図になる。それでも平常エリアにいられるのは意識しているからだけれど、陸に上がれていないのも事実だ。
依存を制するのは、理性か、それを問題視した他者しかいない。
他人の干渉ならピストルを持ったのび太くらいの効力はあるかも知れないけれど、周りはみんな丸腰である。つまり仲間しかいない。
これがもう戻れないという事のリアルだと思う。
問題意識を持って、干渉が可能なのは専門の医療機関か、子供からスマホを取り上げる事のできる親ぐらいじゃないだろうか(それ以外は人権侵害になる)。
どんなに社会の問題意識が高くても、自分の周囲の認識が低ければ頼るのは理性(自分)のみとなる。

自己管理ができて、情報リテラシーがあり、コンテンツの取捨選択できる人が、活用できているという事であり、それ以外の人は情報の渦に飲まれていく。
また、こういった依存性を危惧している人が、結局は自説に巻かれて飲まれている場合もある。私も然り。
人類の脳内が世界中に曝け出されているのだから、禅を意識してもつい雑念に塗れてしまう状態と似ている。

依存症は、危ない・いけない・気をつけようだけで治った人はいない。
抜けられないという前提でいかに距離を保つか考える必要がある。


とりあえず私は、

・使用する時間帯と使用時間を意識する
・あえて思い切り使う日を決める
・記事や動画をタップする時、今必要か、ひと呼吸置く

という3点を意識している。


広告が既に超自我である可能性

SNS依存について調べていたら、RiHacQで同じテーマを扱っていた。
過剰な承認欲求の成れの果てが悲惨だとして、根本を掘り下げると広告呪縛に行き着くらしい。考えれば当然だけれど、拡散やアクセス数を稼ぐように仕向けられている範囲が、普段意識しているよりも、ずっとずっと強大である事実がある。
流されない意識は持つとして、もし広告様様な時代が終わってもクリエイターが生きていけるような時代は来るだろうか。現状では、発信者は広告があってなんぼ、受信者も広告を消したいなら課金、その他のサブスク嵐も不便あるいは地獄(個人の感想)。
広告呪縛がある限りこの流れは変わらず、前時代に戻ることもできない(ネットを遮断すれば可能だけれど)。

そもそもこの呪縛から逃れる次元というのはあり得るんだろうか。
仮に何らかの形で広告に振り回されない状況になったとして、AIがフェイクや有害コンテンツを有効に管理できるようになったとして、ユーザーが願うような形に変わっていくだろうか。それとも、もう既にAIがこれまで以上に生成・管理していて、この状況が加速する上に、広告頼りの人達はさらに奪われていくのだろうか。
と思っていたら今年1月の時点で、、、→記事

私は趣味で詩や文章を書いているけれど、いざとなったら紙にして道端で配るのでも、たぶん欲求は満たされる。記事の挿絵を漁っていても、AIタグがある。このタグみたいな証明が判断材料になるのだとしても、絶対はもうない。
依存からも切り離せず、このまま何が真実か分からない世界を泳ぎ続けるしかないのなら、
不安を放置せず、何かに苛まれたら、その都度自分に手繰り寄せて、冷静に見つめるしかない。
そうしない事の方が不安だからというだけの心許ない自意識でも、これを情けないなんて思わずに、自分に自信を持つメソッドを早急に取り入れなければいけない気がする。これからどっぷりとAIに触れていく事に変わりはないから。

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