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肉筆で推敲の跡

何とは無しに、足が向いた 港の見える丘公園|体験・観光スポット |【公式】神奈川県のお出かけ・観光・旅行サイト「観光かながわNOW」
そういえば先日、こちらの喫茶を挙げていたのでした。
【穴場喫茶】 横浜、港の見える丘公園にある大佛次郎記念館 そこに併設のティールームは、とくに雨の日におすすめです https://osaragijiro-museum.jp/tearoom_mute|美恩

ティールーム霧笛

今回は、大佛次郎館へもまいりました。氏の猫好きは有名ですが、どうやら一般市民の猫写真コンテストも繰り広げられているもよう。

好きな写真に投票するスタイル。この奥まで、沢山の愛のこもった力作が続く

こちらの館は、そのしつらえも見どころです。展示は撮影不可ですが、建物はO.K.とのことで、どうやらそちら目的とおぼしき男性方もそれぞれ本格的に撮られてました。

至るところに猫がいる
サロンから公園を臨む

氏と言えば、わたくしにとってはどうしてもこちらの本。

大佛次郎 『猫のいる日々』六興出版、1978年。

どうやら今は他の出版社からの出版や、なんと漫画にもなっているようでした。展示を見てびっくり。
しかしそれよりも、『鞍馬天狗』『赤穂浪士』フランスのノンフィクション『ドレフュス事件』、歌舞伎や童話までのとても幅広い製作が印象的です。多才で魅力的な方だった。
こちらの館では、氏の寝室や蔵書の一部、原稿や身の回りのものなど、その姿をしのぶ空間を楽しめます。
中でも
昔懐かし原稿用紙に残る、氏の肉筆と度重なる推敲の跡。
製本からはとても想像できないその夥しい跡を眺めているうちに、「言葉を扱うこと」への真剣さや苦心の大切さに、しんみりと考えてしまいました。

今わたくしがキーボードで打ち込み、削除、切り取り&ペーストなどをしている作業は、あまりにインスタントで気持ちと同時に手が動いている状態です。
しかし、万年筆手書きで起こした原稿は、その修正にすらとても時間がかかるものです。棒線で消して、吹き出しをつくって、点やてにをはを入れ替えて、つまり、修正しながらもその間、さらに考えながら「本当にこの修正でいいのか」の逡巡や、修正の修正等々の手間の跡がことさら如実に残っているのです。
自身の気分ではなく、読み手への伝わり方、つまり自身の伝えたい内容やニュアンスを一旦離れて眺める、という真摯な、謙虚な、礼儀正しい姿勢がそこに在るのです。

話しは変わるようですが、子どもの頃、鉛筆で原稿用紙に書き進めていくと手の平の横側が鉛で黒くなったものでした。(右利きの場合)
夢中の時はどんどん黒くなっていくものですが、筆が進まない時は気が散ってそれが気になってしかたない。拭きながら、言葉を考えたりして。
そんな不便さ・無駄さが、実は自分の言葉をコントロールする種だったのかもしれません。
現代は、あまりに安易な言葉が飛び出してくることが多く、おそらくそれを世に出した本人ですらその時を覚えていない、という現象があるように思います。
言葉は、一度出したら残るもの。
おのれの未熟さをきちんと恐れて、推敲したいものですが、今は修正作業がらくちん過ぎて推敲まで根気が続かない。

さて
わたくしには独自のコースがありまして、こちらの館に伺った際は(そうでなくとも)例のティールームでひと息つきます。館から伺うと値引きあり。

この酸味の効いたチーズケーキが、わたくしにとってのチーズケーキ

ミニ本棚にある数々の作品の中から『赤穂浪士』を抜き出し、いくつかの重要なシーンを読みながら、先ほどの氏の幅広く整った字と推敲の跡を思い出す。
店内はいつもクラシックが流れていて、貸し切り状態か2組くらいの環境で落ち着きます。

この後は、館裏手にある 神奈川近代文学館/(公財)神奈川文学振興会  へ。
いつかの夏には、太平洋戦争時の日本軍の特集が組まれており、映像資料では強烈に苛烈悲惨なシーンも年齢制限有で公開していました。
かと思えば、横浜が舞台の漫画の特集もあったりします。
しかし
今回は、常設を再確認しに。
神奈川にゆかりのあった近代作家たちのトピックスと原稿、まつわるモノがとてもわかりやすく展示されています。これ、学生さんにとても良いと思う。居心地の良さそうな視聴覚ブースもあり、これで拝観料260円(大佛次郎館は200円)とは、さすが公立。

漱石、鴎外、三島、志賀、川端等々の生原稿が次々に見れます。毎回、面白く拝見します。
ヒェェ~ッと思う芥川龍之介の文字、意外だと感じる朔太郎のしっかりとした文字。
諸氏、汗のにじむような推敲の跡を追うことが出来ます。
手紙だと達筆なのに、原稿だとこれいかに。という作家もあれば、削除した部分をいちいち塗りつぶす作家あり。修正が重なりすぎて、赤インクになり、さらにとうとう紙も上から足しちゃった、という作家あり。

完成形ではない作品を、言葉を通して読みながら観るということは、絵画のそれと違ってグッと作者に近づけた気持ちになります。
もう、こんな原稿は無くなっていくのでしょう。データになるのかな。手紙も、メールかな。

にんげんの活動の痕跡が待ってくれているあの館では、昭和生まれのわたくしは何やらほっと安心するのです。
もう手紙も久しく書かなくなったけれど、ある日突然、友人たちに送ってみたくなりました。





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