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中世の地震と大和


はじめにー奈良県における地震災害の想定

 奈良県(大和国)は災害が少ない地域である、と思われる傾向が少なからず存在しているようだ。古代より都が置かれ、法隆寺など古い木造建築物が今なお存在しているのもその一因であろうか。しかしそれが幻想であることは、少し調べれば明らかである。特に近年の気候変動がもたらす災害は、大規模化した台風や線状降水帯による大雨といった形で現れ、近年でも大きな被害を奈良県各地でもたらしている。顕在化する災害であるが、中でも最も恐れられている災害の一つは地震であろう。予測が困難で、発生すれば生命や財産を含めて甚大な被害をもたらすからだ。
   総理大臣を含む全閣僚や専門家等によって構成される中央防災会議発表の地震被害の想定によると、奈良県にはいくつかの地震に対して大きな被害が出ると予想されている。中でも最も発生する確率が高いのが、南海トラフ巨大地震で、政府の地震調査委員会によると、二〇二二年一月時点で、今後四〇年以内にマグニチュード八〜九級の地震が発生する確率は、九〇%程度とされる。地震が予想の最大値を示した場合、奈良市・橿原市などほとんどの市町村で震度六強の地震が発生し、死者一〇〇人から一七〇〇人、住宅崩壊四万七千棟、人口の九割に当たる百三〇万人が断水の被害を受け、最大二九万人の避難者が発生すると予想されている。また、建物の倒壊などによる経済的損失は三兆四千億円規模になると想定されている。
   次に、県内最大の被害が予想されるのが、奈良盆地東縁断層帯による活断層地震である。震度は最大で七、死者数約五二〇〇人、全壊棟数は南海地震の倍以上となる約一一万九六〇〇棟、避難者数四三万人、八割以上の世帯で断水が起こると推定されている。今後の震度六弱以上の確率は、ほぼ〇~五%程度と言われている。
   更に、県内では御所市、当麻市、大和高田市を南北に貫く形となる「中央構造線断層帯」での地震で、震度六弱以上の確率は、ほぼ〇~一四%とされており、発生すれば死者数は最大で約四三〇〇人と推定されている。また、生駒市、平群町の西側にほぼ沿う形の「生駒断層帯」による地震では、最大震度七~八、ほぼ〇~〇・五%で低確率ながら、被害が想定される地震である。
   ちなみに死者六四三三人、住家全壊一〇万四九〇六棟、半壊一四万四二七四棟、最大震度七、マグニチュード七・三を記録した、阪神淡路大震災では、震災前の発生確率(三〇年間)は、〇・四%〜八%であったことを考えると、低確率と想定されていても、現実に起こりうる数値であることを認識しておかなければならない。
   このように地震による被害想定は、奈良県内でも確実に起こりうる事象として認識されており、個人や行政による常日頃からの心がけや対策、減災に対する整備が不可欠であるといえる。本論においては、地震研究の歴史についてまず言及し、それを踏まえた上で、本題である中世の大和国で起こった地震災害について取り上げる。次に、中世の人々が地震をどのように考え、それに対処しようとしたのかについて考察し、最後に明治から昭和にかけて活躍した物理学者寺田寅彦の言葉を借りつつ、まとめとしたい。

一、歴史学と地震研究

 歴史学研究の「歴史」において、災害史研究はもとより活発なものではなかった。一九八〇年代に、荻原尊禮編著『古地震―歴史資料と活断層からさぐる』(東京大学出版 一九八二)、『続古地震―実像と虚像』(一九八九)が相次いで出版されたが、執筆者五名のうち、歴史学者は一人であり、歴史的展開をテーマとしながらも、理学部系が中心となって研究が行われていたことはその証左といえる。
    九〇年代前半以降、日本史学会では、政治史中心から社会史、災害史研究が明らかに増加していった。一例をあげれば、藤木久志氏による飢饉・疫病と中世社会の研究である。潮流の変化をもたらしたのは、一九九五年一月の阪神・淡路大震災の勃発であり、これ以降、地震史研究、災害史研究も活発化していった。これは、のちに北原糸子編『日本災害史』(吉川弘文館 二〇〇六)の出版という形で結実したといえる。更に、二〇一一年三月の東日本大震災があり、それ以降「歴史地震研究会」の入会者が急増したという事実からも歴史研究者の間での災害史研究の関心の高まりを示している。
  時節や時流により、研究テーマに流行や盛衰があるのは、いずれの学問分野においても変わらない事実であると思われるのであるが、殊更歴史系研究者の頭をよぎったのは、「役に立つ学問」かどうかという現実的課題であろう。歴史学・文学・哲学などの人文科学系の研究は、理系諸分野の研究に比べ、その存在意義を問われることが多かった。しかしながら地震研究は、その点意義を見出しやすく、役に立つとアピールしやすかった。その結果、地震災害研究自体は増加し、かつ深化していったことは、現代社会における減災・防災の一助にはなり得るといえる。ここに一つの史料を示す。
 「陸奥国の地が大いに震動した。流れる光は昼のように影を映し出した。暫 くの間、人々は叫び、伏して起き上がることができなかった。家屋が倒れ死圧し、地が裂けて埋没もした。馬牛は戦慄いて走り出し、昇ったり踏んだりした。城郭の倉庫や門櫓の垣の壁は頽げ落ちて転覆したりしたその数は数えきれない。海からの音は雷に似ていた。驚くほど潮が涌いて、膨張して忽ち城下まで押し寄せた。海から離れて数十百里の地でも、水が広がっていて、どこが海岸線かわからないほどだ。道路は全て海原となった。乗船する暇もなく、山に登ることもできない。溺死者は千人ほどで、植えた苗などの土地や財産はほとんど残らなかった。」(『日本三代実録』貞観一一(八六九)年五月二六日) 
 現在の東北地方に、巨大地震が発生し、甚大な被害を示すこの記録は、西暦八六九年に起こった世にいう貞観地震の時のものであり、日本海溝の陸奥国東方沖を震央とする巨大地震であった。この通り原文の漢文調を現代語訳すれば、東日本大震災の被害の描写とそうかわらないものとなろう。地震災害を記録する歴史史料の重要性が認識されたのではないだろうか。
 次に、古地震の地震測定法とその限界について見たい。現在のような科学技術水準や調査機関が存在しなかった前近代において、精密とは言わないまでも、地震発生時の規模や震度はどのように算出されたのであろうか。まず重要なのは、文献史料であり、次に発掘調査である。これらを手がかりに、地盤の強弱を考慮して、震央(震源地)が推定される。次に、震度については、目安があり、震度五で液状化現象が見られ、震度六で寺の本堂が倒壊する事態となり、震度七で城の天守閣に被害等の基準で判断されるが、中世の地震においては、震度は明示されていないことが多い。また、地震の規模を示すマグニチュードは、震度五以上の面積から算出される。しかしながら問題点もあり、一般的に時代が遡るほど文献史料は不足する傾向にあるが、そういった古い時代の場合は地震の全体像が摑みにくくなる。これらを補うため、地震学者や地層学者、考古学者による実地調査や発掘調査は有効であるが、ボーリング調査などはコストが大きくなるし、トレンチ調査などは地域的制約が発生するなどの問題点がそれぞれある。前近代、特に戦国時代以前の地震については、十分な知見を得るには限界がある点は予め理解しておく必要があるといえる。

二、中世における地震の脅威を記す二大文献『方丈記』と『太平記』

 『方丈記』の作者鴨長明が体験した元暦二年(一一八五)七月の地震は、震央が京都市山科区日ノ岡付近といわれ(一方で南海トラフ地震説もある)、地震の規模を示すマグニチュードは約七・四と推定されている。いわゆる文治地震(元暦地震ともいう)である。数々の文献にも記録されているが、『方丈記』に記事は詳細かつ、その被害を的確に描写しており、余震の状況も記録されている。更に、「羽がなければ、空を飛ぶこともできず、竜でなければ、雲にも乗れない。恐れの中に恐れというべきは、ただただ地震であるということを覚えておかなければならない」と記されており、文学的な表現が地震の被害の恐ろしさを巧みに伝えている。ここでは原文を提示しよう。
○第二一段、第二二段(角川ソフィア文庫 一九六七 二八~三〇頁)
 「また、同じころかとよ、おびただしく大地震ふる事侍りき、そのさま、よのつねならず、山はくづれて、河を埋み、海は傾きて、陸地をひたせり、土裂けて、水涌き出て、巌割れて、谷にまろび入る、なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、道行く馬は立ちどをまどはす、都のほとりには、在在所所、堂舎塔廟、一つとして全からず、或いはくづれ、或いはたふれぬ、塵灰立ちのぼりて、盛りなる煙のごとし、
 地の動き、家のやぶるる音、雷にことならず、家の内にをれば、たちまちにひしげなんとす、走り出づれば、地割れ裂く、羽なければ、空をも飛ぶべからず、竜ならばや、雲にも乗らん。恐れの中に恐るべかりけるは、ただ地震なりけりとこそ覚え侍りしか、
 その中に、ある武者のひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、築地のおほひの下に、小家をつくりて、はかなげなる跡なし事をして、遊び侍りしが、俄にくづれ、うめられて、跡かたなく、平にうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりづつうち出だされたるを、父母かかへて、声を惜しまず悲しみあひて侍りしこそ、あはれに、かなしく見侍りしか、子のかなしみには、たけきものも恥を忘れけりと覚えて、いとほしく、ことわりかなとぞ見侍りし、
 かくおびただしく震る事は、しばしに止みにしかども、そのなごり、しばしば絶えず、よのつね、驚くほどの地震、二三十度震らぬ日はなし、十日・廿日すぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度・二三度、もし一日まぜ、二三日に一度など、おほかた、そのなごり三月ばかりや侍りけん、」 
 次は、康安元年(一三六一)の地震(後述)による津波の被害を示す『太平記』の記事である。太平記も文学性を帯び、歴史学者にとっては、「一級史料」と呼び難い面もあるが、何より史料の少ない時代であり、全体像を把握する意味でも重宝されている。
○巻第三六「大地震并夏雪事」(日本古典文学大系三六)
 「同年ノ六月十八日ノ巳刻同十月ニ至ルマデ、大地ヲビタダ敷動テ、日々夜々ニ止時ナシ、山ハ崩テ谷ヲ埋ミ、海ハ傾テ陸地ニ成シカバ、神社仏閣倒レ破レ、牛馬人民ノ死傷スル事、幾千万ト云数ヲ不知、都テ山川・江河・林野・村落此災ニ不合云所ナシ、
 七月二十四日ニハ、摂津国難波浦ノ澳数百町、半時許乾アガリテ、無量ノ魚共沙ノ上ニ吻ケル程ニ、傍ノ浦ノ海人共、網ヲ巻釣ヲ捨テ、我劣ジト拾ケル処ニ、又俄ニ如大山ナル潮満来テ、漫々タル海ニ成ニケレバ、数百人ノ海人共、独モ生キテ帰ハ無リケリ、」
 ここでは、海溝型地震である南海地震が六月一八日に起こり、その後余震と見られる地震が勃発した。一度波が引いたため(引き潮)人々は我先にと海産物の確保に乗り出したところ、大規模な津波が発生し、人々を飲み込んでいった、と記述する(現代では、引き潮は必ず起こる現象ではなく、また押し寄せる津波の速度はジェット機並みであるという)。これも東日本大震災の津波被害を想起させるものとなっている。

三、地震と大和

 ここではおよそ南北朝時代から天正一三年(一五八五)一一月の「天正地震」までを取り上げ、大和国で起こった地震について、まずはその概要を示したい。
1、康安元年(一三六一)六月の「康安(正平)南海地震」
 南北朝期の六月二四日の早朝、西日本の広範囲で激しい揺れが勃発した。震央は室戸岬南東の海上約八〇キロの地点とされ、マグニチュード八~八・五と推定されている。四国で大津波の痕跡が確認されている。いわゆる康安(正平)の南海地震である。摂津の四天王寺では、金堂が倒壊し、安居殿(安居神社)近郊まで津波が押し寄せ、多くの住民が犠牲になったという。紀州熊野では、がけ崩れにより山道が塞がり、湯ノ峰の温泉水が止まったという。そして大和では、法隆寺・薬師寺と唐招提寺に被害があったことが確認されている。「六月十八日ヨリ一〇月十八日至大地振」(『大乗院日記目録』)とあり、余震が四ヶ月程続いたことを示している。畿内近郊では、六月一六日から数日地震が起こっており、二一日と二二日にも大きな地震があったことが複数の史料で確認され、いずれも前震と見られる。それでは、奈良法隆寺の記録から、この地震の詳細を見てみよう。
○『嘉元記』康安元年
 「六月二四日の朝六時ごろ、急な地震があり、当寺(法隆寺)の五重塔上部の九輪の部分が火災により一折燃え、金堂束間の仏壇が燃え崩れ落ちた。東大門北脇の築地が少し破れ落ち、仏法堂は南へ落ち破れた。薬師寺の金堂の二階が傾き破れ、御塔一基は九輪部が落ち、もう一基は大いに歪んだ。中門、廻廊は悉く転倒した。同じく西院も転倒し、この外の諸堂も悉く破損したという。唐招提寺の塔の九輪は大破し、西廻廊は全て転倒した。渡廊部分も悉く破れてしまった。また四天王寺の金堂は破れ倒れ、安居殿(安居神社)の御所は西浦まで潮が満ち、その間の民衆の家々は、多く損失したという。熊野山の山路や山河等は、ほとんどが破損した。ある説には、湯の峰の湯が止まって出なくなったという。
 同じ年の七月十一日、大地震が起こった。法隆寺の塔、本より折れて落ちてしまった。その後、寺門の沙汰として、寺僧郷民による勧進、または年貢供料の借用するなど、「廻種々之秘計」、同年十二月晦日にはもとのように修復した。」

2、文安六年(一四四九)四月の「大和山城地震」
 山城・大和で地震。震央は京都市下京区蛭子町付近で、マグニチュードは約六・五。京都市北西部の活断層群の一つが活動したといわれる。一二日に本震があり、一ヶ月後の五月一二日にも大きな余震が起こった。四月の地震で興福寺伽藍北側の築地塀が損壊し、京都東寺の大門柱が破損したという。
○『大乗院日記目録』
 「四月十二日、大地振、垣の北部が悉く以て崩れた。東寺の大門柱が破損した。
 五月十二日、大地振。
 七月二八日、宝徳元年に改元された。去年七月以来洪水、今年になり地震、疫病、飢饉が起こったためだ。」

3、明応三年(一四九四)五月の地震の「王寺地震」と明応地震
 五月七日、大和国を中心に地震が発生。震央は王寺町久度、マグニチュードは約六・〇。洛中より南都の被害の方が大きかった(『親長卿記』)。大和では、東大寺・興福寺・薬師寺・法花寺・西大寺に被害をもたらした。七日以降も余震が続き、東大寺の大仏が破損したほか、奈良各所の石塔も破損したという。また、新木庄(大和郡山市新木町)の天皇陵にある池(溜池として利用)の堤が決壊した。以下当時の史料を見てみよう。
〇『親長卿記』明応三年五月
 「二九日 晴、或る人がいった。去七日に地震があり、南都はひどかったと。東大寺や所々の築地等が崩れおちたという。」
〇『大乗院寺社雑事記』明応三年五月 
 「七日 昼十二時ごろ大地振があり、とんでもないこと事になった。東大寺・興福寺・薬師寺・法花寺・西大寺・矢田庄の在々所々が破損し損亡した。珍しいことで、ほとんどが引き倒れてしまった。金翅鳥が動いたのだ。
 八日 地が揺れなお動き続けている。金翅鳥が動いたのだ。所々が崩れたという。また所々にある石塔が悉く破損してしまった。
 十三日 普賢僧が来た。東大寺の大仏の御頭あたりが地振のために破損してしまったという。
 十九日 寬円を新木庄に差し下した。御陵中に池が四分ある。用水用だ。この内本ノ大池が今度の地振で堤が切れてしまった。
 廿一日 昨日良家衆による大般若経があった。地振祈祷のためだという。
 廿四日 地振で崩れた東方の石築地が昨日完成した。石は少々が粉失していたという。そのため一貫百五十文を下した。二丈五尺分だという。
 廿五日 四恩院において群参し、大般若経があったという。三か日か。地振祈祷であった。
 廿八日 興福寺の地震祈祷は今日に至る。
 六月五日 大仏の御胸部が地振により損じてしまった。よって今日修理を加えたという。」
 『親長卿記』を記した甘露寺親長は京に、『大乗院寺社雑事記』を記した尋尊は奈良興福寺に居た。なお、この明応年間は地震が多く発生しており、四年後の明応七年(一四九八)八月二五日に南海トラフ巨大地震が発生(明応地震)した。震央は南海トラフ沖の海底で、で、マグニチュードは八・二〜八・四、溺死者は二・六万人と言われる。当時の記録には、「大地震の日、伊勢・三河・駿河・伊豆に大浪が打ち寄せ、海辺二三十町の民屋が悉く溺水して、人命が失われ、その他牛馬類は数えきれないほどだという。前代未聞だ。」(『後法興院記』)とある。
 この地震による大和国での被害については、「地蔵堂の南庇崩れた。地震のためだ」(『大乗院寺社雑事記』)とあるように、奈良市中にある地蔵堂の庇部分が破損していたことが確認される。

4、永正七年(一五一〇)八月の永正地震
 八月八日、大和・山城や摂河泉で地震が発生した。震央は、奈良県斑鳩町付近で、マグニチュードは六・七と推定されている。洛中に住む従一位の前関白、近衛尚通の記録(『後法成寺関白記』)によると、八日暁に大地震があり、その後も二度大きな揺れがあった。翌日にも余震があり、一三日には地震勘文(後述)が出されている。不幸なことに、同月二〇日には大風があり、所々が吹き破れたという。地震と台風上陸による災害の連鎖があり、大きな被害を畿内各地にもたらした。地震の記事は二四日条にも見られるなど、なお余震が続いていた。同じく当時の記録には、以下のように記されている。
 大和国と山城国で台風と大地震があり、四天王寺の石鳥居が揺れ崩れ、同じく藤井寺の本堂も忽ち崩れた。前代未聞の出来事だ。(しかしながら)すぐさま鳥居も藤井寺も立て直された(『写本大般若経奧書文節略』)
 この地震では、斑鳩町付近が震央地となったため、大和の寺社にも相応の被害があったと考えられ、『多聞院日記』にもこの地震について記されている(後述)。しかし、具体的な被害状況はわかっておらず、むしろ四天王寺や藤井寺での損壊の方が大きかったようで、当時の史料でもよく記録されている。

5、天正一三年(一五八五)七月の地震
 七月五日、大和・山城・和泉・三河で地震があった。震央や地震の規模は不明。大和では約五〇年ぶり、三河では一〇〇年ぶりの大型地震という。寺社の建物の被害記録がないことから、相当の規模の地震であったことは以下の記録からも明らかである。数か月後には「天正地震」が発生しており、その関連性が注目される。
〇『多聞院日記』天正一三年(一五八五)七月
 「五日 今日昼の一二時ごろ、大地震があり、常篇を越していた。まず火神が動いたと見える。七月に起こる大地震は大兵乱だ。火神が動くと中央に怪異があって、天子が死に、臣下は亡び、天下の人民は多死するという。大怪異だ。先年(天文一一年、一五四三)木沢左京亮が信貴山に城を拵え、久しく当国の闕所を知行したが、閏三月七日に不慮に死んでしまった。その年の正月廿日の午前十時ごろに大地震があった。それ以来は度々地震があったが指したることはなかった。しかし今日の地震は地面がなくなってしまうのでないかというほどで仰天した。秀吉が天下を一同に補佐しているが、昔も聞き及んだことがない。盛者必衰は時に至ったか。思い沈むところだ。」
〇『家忠日記』天正一三年七月
 「五日、昼の十二時ごろ大地が揺れた。夜になるまで少しずつ続いた。百年以来の地震である。」

6、天正一三年一一月の「天正地震」
 一一月三〇日、畿内・東海・東山・北陸の広範囲に地震が発生。震央は岐阜県関市洞戸、マグニチュードは約七・八。養老桑名四日市断層帯、鈴鹿東縁断層帯、阿寺(岐阜)断層帯の三つが同時発生したとされる。翌年三月まで余震が続いた。奈良市中では、興福寺伽藍を囲む築地塀が半壊し、所々の辻も通行不能となっている。翌月七日には、奈良にも各地域での被害の情報が入ってきており、美濃・尾張・近江で多くの死者が出たことが記されている。また、地震に伴う奇譚な情報もあり、山城の御牧や摂津和泉の住吉浦で水が血色に染まったこと、禁裏で怪異な生物の足跡情報があったことが記録されている。また、来日中の宣教師ルイス・フロイスもこの震災に遭遇し、記録に認めている。日本語訳されているため、そのまま引用しよう。
〇『フロイス日本史』五(中央公論社)
 「本年、すなわち一五八六年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起こった。それはかつて人々が見聞したことがなく、往事の史書にも読まれたことのないほどのすさまじいものであった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは日本の十一月一日のことで、我らの暦の一月何日かに当たるが、突如大地が震動し始め、しかも普通の揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。
(中略)その後四十日間、地震は中断した形で、日々が過ぎたが、その間一日として震動が伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。
(中略)若狭の国には海に沿って、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、盛んに商売が行なわれていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れたち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。高潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。
(中略)これら上記の諸国(堺、近江、京、若狭)では、巨大な口を開いた地割れが生じ、万人に恐怖をもたらした。その割れ目からは、黒色を帯びた泥状のものが立ち昇り、ひどく、かつ忌むべき臭気を放ち、そこを通行する者には耐え難いほどであった。
(中略)この地震が続いた間、およびその後の数日間はこの話で持ちきりで、異教徒たちは、日々目撃することや、遠隔の地の惨状を耳にするたびに、言いようもない恐怖に打ちのめされた。だがその後、ごくわずかの月日を経てからは、まるで何事も生じなかったかのように、地震について話したり思い出したりする者はいなくなった。」
 次に奈良の状況についてみてみよう。
〇『多聞院日記』
 「十一月三〇日 昨夜午後一一時ごろ大地震が起こった。興福寺寺内の築垣が方々が崩れてしまった。宝光院・慈恩院の辻も崩れた。昨夜より今朝まで震動止らず。嘆かわしいことだ。先年(天文一一年、一五四三)木沢左京亮が殺された年の正月廿日に大地震があった。それ以来は七月五日に大地震があったが、どちらも昨夜ほど激しいものではなかった。帝釈天が動いたようだ。天下の物怪であろうか。昨夜は春日山がとんでもなく鳴動していた。
 十二月一日 また昨夜夜遅くの時分に地震があった。今朝までに終わったが、軽重こそあれ震動は止まらなかった。暁には雷電があり、これは七難の隋一だ。全く思い沈む。暮になるまで度々震えは続いた。
 五日 暁に地震があった。今朝も外が揺れていた。二九日より今日まで一七日間地震が続いている。菊岡侍従公は当年九十三歳か。彼が語るには、自分が九才の時、三〇日間地震が続いたことを慥に覚えているという。関東地方は細々と揺れたと人は言っていた。指したる凶事ではないのであろうか。
 七日 今日も少し揺れた。美濃・尾張・江州では、今度の大地震によって人が多く死んだという。城州御牧の三郷と云所に池があり、水が悉く血紅色になった。
 更に住吉浦の水は血色であった。神馬も見えなかった。その夜は春日山から大きな火が飛んだ。色々の事が世上に起こっている。
 十日 今日も少し地震があった。今度の地震で角も崩れた。小塔院へ参見したところ、法印石塔が崩れていたのでこれを直した。
 十一日 先段の地震の時、春日山より火が多く出た。京の内裏の御庭には、数千の声があって夜に踊っていた。朝になって見たら、異形の者の足跡があり、丸かったり、四方が長いものがあり、大小の牛馬以下の様々な動物の足跡であったようだ。院の御所では生首が多くあって、数を数えていたら消失してしまった。二百ばかりあったという。不思議というほかない。
 天正十四年
 二月十二日 四時過ぎに地震があった。この間も少しずつ毎日動いている。去年より今日迄このような状況だ。七十五日ほどか。
 三月五日 夜中から大雨が降り、洪水となった。旧記に大地震の後は、大風が吹くと記されている。心細いことだ。
 十四日 午後四時ごろまた地震があった。旧冬の十一月二九日から今日に至るまで、浅い深いの多少はあるが、揺れが止まることはなかった。永正七年の庚午の
 八月八日の午前四時頃、大地震で所々が破損した。四天王寺の石の鳥居が崩れ、藤井寺も崩れた。数日間揺れて、九月廿□日の、午前0時頃から東風と大雨があり、奈良中方々が大破したと旧記にある。心細いことだ。」

四、中世における地震観念とその対処策

1、地震の発生要因
 現代人とは異なり、科学的な知見をもっていない中世の人々は、地震の原因についてどのような理解をしていたのであろうか。『大品般若経』の注釈書である『大智度論』巻八には、「有人言四種地動、火動・龍動・金翅鳥動・天王動」とあり、火の神や龍、伝説の大鳥である金翅鳥(インド神話の迦楼羅に比定される)、仏教を守護する神である帝釈天、毘沙門天などの天王が動いたときに大地が揺れ、地震が発生すると考えられていた。実際、明応二年(一四九三)一一月三日に起こった地震には、「夜前大地震、帝釈動くなり」(「大乗院寺社雑事記」)とあり、帝釈天が動いたため、地震が起こったのだと解釈されていた。文明三年五月の地震では「龍神が動いたため」(『経覚私要鈔』)と、明応三年五月の地震では「金翅鳥が動いた」(『大乗院寺社雑事記』)ためと記録されている。
 また、天正一三年七月の地震では「先ず火神動くと見たり」(『多聞院日記』)とあるように、火の神が動いたための地震であると認識されている。これらは僧侶による記録であるため、多分に仏教的要素の強いものであるが、一方で、物語的要素が強い『太平記』においても、「二つの龍が去る時、また大地が震え、四天王寺の金堂が砕けてしまった」とあるように、龍の動きと地震との関係が記されていて、中世社会に広く浸透していたと考えられる。
 一方で、日蓮宗の開祖である日蓮は、興味深い地震解釈をしているので紹介しよう。その書『守護国家論』において、以下のように正嘉元年(一二五七)の地震について記している。
 「浄土宗など、ひたすら念仏行を行なっている者が、法華経等と縁を作ってしまったら、念仏者の成仏や往生の障害になるという。ここに法華経を捨て離れる心が生まれた。このために諸の天は、釈尊の妙法を聞くことができない。法華経を学ばなければ、威光や勢力は失われ、四天王やその眷属はこの国を捨て、日本国を守護している善神たちも、この国を離れてしまうことになるのだ。このために正嘉元年に大地は大いに揺れ、同じ二年にも春の大雨が起こって苗を失い、夏の大旱魃は草木を枯らし、秋の大風は果実を失い、飢饉がたちまち起って、万民がいなくなってしまったことは、金光明経に書かれている通りだ。これは法然が記した選択本願念仏集の責任ではないのか」
 悪法とは当時流行していた専修念仏や浄土信仰を指していて、これに傾斜して、最高の経典である法華経を学ばない者が増加したため、「善神」が日本を見捨て、このために地震等の厄災が起こるのだと日蓮は解釈するのである。
 地震等の厄災との因果関係という意味では、『平家物語』にも記される。先述した文治地震の際の記事である。
 「それからして平家が亡び、源氏の世になって後、国は国司に従い、庄園は領家が支配するようになった。上下の人々が安堵していた時に、七月九日の午後一二時頃に、大地がおびただしく動いて、それがしばらく続いた。(中略)皇居を始めて神社仏閣、身分の低い者の民屋など皆破れ、崩れる音は雷のようで、上がる粉塵は煙のようだ(中略)埋もれて死んだ者は数え切れないほどだ。水火風雨は常に害を為すが、大地には異変が無い。しかし今度は世の中が無くなるかのように遣り戸や障子は音を立て、天が鳴り、地が動くごとに、人々は念仏を唱えて、泣き叫ぶ声で満ちていた。六十から九〇歳の人々も、「世の中がなくなってしまうような出来事が起こることは世の常ではあるけれども、それがまさか昨日今日とは思いもしなかった」と言い、子供たちもこれを聞いて、泣き悲しんでいた。 
(中略)十善の天皇(安徳天皇)が、帝都をお出になり、その身を海底に沈められた。大臣公卿は、捕れて旧里に帰り、頭を刎ねられて大路に晒され、または妻子と別れて遠流に処せられた。平家の怨霊によって、世の中のなくなったものについて話をしていると、心ある人で歎き悲しまない人はいなかった。」(巻十二「大地震の事」)
 平家滅亡後、源氏の世となり、世の中は安定し、世の人々も安堵していたが、突如起こった大地震によって、多くの家屋が損壊して、人命が失われたことに対して、人々は恐れ、嘆くことしかできなかったという。しかしそれは、何の因果もなく発生したわけではなく、平家の怨霊と絡めて叙述している点は興味深い。明確に地震の発生原因としているわけではないが、少なくとも地震による災害によって失われた原因を「平家の怨霊」に求めているのである。
 一方で、のちに関白を勤めた九条兼実は、この文治地震の原因について、ある僧侶の主張を記録し「衆生の罪業の深長により、天神地祇の怒りを買ったため」(『玉葉』元暦二年八月朔日条)また「天下の政に違乱があり、天神地祇の祟りがあり、大地震へと至ったのだ」と(七月二七日条)とこれまた訪問してきた僧侶の夢告を記録する。「天神地祇」の怒りや祟りのために地震が起こったと解釈していることがわかる。兼実自身は「天変地異の災害は、武力や威勢ではどうすることもできない。仏神のご加護がなければ、人の力の及ぶところではない。今度の大地震は、人心を諭すためのものだ」(七月一二日条)と記し、地震の原因を探求するより、やや達観した境地で、今度の地震の発生を受け止めていたことがわかる。兼実の記録は平安末から鎌倉初期のものであり、本論が主に取り上げた時代とは若干遡ることになるが、このような理解をする公卿がいたことは興味深いといえる。

2、地震への対処法について
 次に、中世の人々がどのように地震に対して対処しようとしていたのであろうか。まずは勘文である。勘文とは、何らかの事故や災害など非日常的な事柄が起こった時に、院や天皇からの諮問に対し、その先例や吉凶を占い、その結果を答申したもので、朝廷はそれを下すべき裁許の判断材料とした。答申したのは、朝廷で暦等天文事象を統括していた陰陽道の土御門家であった。土御門家は「天地瑞祥志」や「京房」等といった古代漢籍を引用し、月や星の動きや位置関係などを元に、その地震の吉凶を占った。中々解釈の困難な文言が多いが、現代語訳すればこんな感じであろうか。
 「十三日 (前略)去七日、地震勘文、尋問これを記す。
 只今午後十二時頃に大地震、音あり、傍通張宿(張宿はうみへび座星列の一つ)は水神の動くところである。天地瑞祥志に記される。傍通水神動く所であると。京房に記される。地震があったとき、国で家臣が乱れると。天子(天皇)はこれに気を付けなければならない。又言う。夏に音のある地震が起こった時は、将軍もまた気を付けなければならない。又言う。五月の地震は、廿五日を過ぎていなかったら兵乱があると。又言う。水神が動いたならば、雨が降らず、河川は枯渇すると。又言う。水神動くところは、大きな喪があると。
   明応三年五月七日 従二位(土御門)有宣 」(『後法興院記』)
 このような勘文を受けとった朝廷は、主要な寺社に対し、地震平癒や災害拡大防止の方策として、祈祷を行うよう命じる書状を下した。興福寺が受け取ったはものが以下の通りである。
 「廿八日、午後四時ごろ、京都よりの奉書を柚留木雑掌方より受けとった。
 去る十四日に大地震がありました。公家や武家の慎みは軽くありません。丹念に祈祷を行うよう興福寺とその他の七大寺に(天皇が)仰られた旨、興福寺別当様に披露なさるよう申す次第であります。恐々謹言。
    五月十六日 刑部卿忠弘が奉る
   大進法橋御坊へ
 今日は良い日にちではない。今月の諍雄の日でよい時ではない。明旦に興福寺別当へ仰せ遣わすのが良い。七大寺へも同前だ。」(『経覚私要鈔』文明三年(一四七一)五月)
 こういった朝廷からの依頼・命令を受け、興福寺や大和の大寺社では、加持祈祷が行われた。主に般若心経や仁王経や転読され、中断なく数日間続けられた(『大乗院寺社雑事記』明応三年五月条)。このような、地震や災害の発生→勘文による吉凶の占い→平癒のための加持祈祷の実践という流れは必ずしも定型化していたわけではないのであるが、こういった祈りの力で地震災害に立ち向かおうとしたのは確かであり、中世国家の実態であった。
 一方で、年号を新たにする改元で以って、大規模な地震や災害による社会不安を乗り越えようとすることもあった。改元は、中世においては、天皇即位の翌年に行われていた(代始改元)。また辛酉や甲子の年などは、大きな政変が起こりやすいとされ、改元となった(革命改元)。また、中世後期では、わずかではあるが、災害が続いた場合、改元が行われることがあった。文安六年から宝徳元年(一四四九)への改元がその一例である。当時の記録には以下のように記される。一度引用したものだが、今度は現代語訳せず提示しよう。
 「七月廿八日、改元宝徳元年、依去年七月以来洪水并今年地震、疫病、飢饉也」(『大乗院日記目録』)
 地震のほか、洪水や疫病、飢饉が起こったため改元となったことを示している。このように改元は、天変地異等困難な社会状況への対処策の一つであった。ちなみに地震などの天変地異がおこったため、改元となった事例は、平安期では七例、鎌倉期で八例、また江戸期では三例あった。地震の発生頻度に比べれば、それにともなう改元の事例は少ないといえ、その効果について、朝廷や幕府は慎重に対処したといえる。

3、村里の防災対策
 以上が国家的な地震に対する策であった。一方で、民衆はどのように地震に対処しようとしたのか。ここでは地震のみならず、災害全般にどう対処しようとしたのか。いわば村里単位の防災策はどのようなものがあったのかを見てみる。それを示してくれるのが、『三国伝記』(上)(三弥井書店 一九七六)三巻一二話「潅頂卒塔婆功徳の事」である。ここで語られる話の中で、この頃疫病が流行しているが、同じ一国の中でも、物凄く流行して多くの死者を出している村もあれば、全く流行らず死者も出ていない村もある。同じように、一国の中でも、栄えているところもあれば、栄えていないところもあるのは、どういうことだろうかと疑問を抱く人物がいた。これに答えたのがある「行脚ノ僧」であった。近江の瀬田橋に掛かる橋の隅にある卒塔婆と空に釣ってある灌頂とを指さし、こう語った。以下概略を示す。 
 「この空に釣ってある灌頂を靡かせている風は、苦しみを脱して楽を得るためのものである。四方には四天王の威風が吹き、更に四菩薩が魔を退けている。このために諸々の疫病や鬼霊などの人に非ざる者は、ここに近寄ることができずに消滅してしまうのだ。このため七難が消滅し、七福が生じることになる。その方法とは、正月の八日に仁王般若経を講じ、灌頂を人々の家に掛け、卒塔婆を立てて諸天を敬いなさい。これを疑いなく行えば、あらゆる病悩は消滅し、長寿と富貴を得ることができるのだ。」
 以上のように、村里における防災の対処法とは、仏教思想に根付いた方法であり、その本質はマジカルな方策で対処しようとした中世国家の本質と大差はないといえるが、心のよりどころとして、精神的な支えとして機能していた。このある人物の抱いた疑問、何故同じ国内でも災害の大きい所と小さい所があるのか、といった点は誰もが抱く道理であり、「卒塔婆を立てて、諸天を敬う」ことにより、一応の災害への対抗策を提示しているのである。

4、復興への動き
 現代の地震対策においては、災害に備える事前の減災対策、地震発生直後の救命措置やライフライン確保などの緊急策、更にその後の経済援助やインフレ再整備などの復興政策など、それぞれの時期に応じた地震対策が取られているが、この時代にはそのようなものはない。しかし、当たり前のことであるが、祈ったところで崩壊した寺社や家屋が修復することはない。当時の人々は復興に向けて尽力することで、旧態に戻す努力をしていた。これも一度挙げた史料であるので、今度は原文で提示しよう。康安の南海地震における法隆寺の『嘉元記』である。
 「同年辛丑七月十一日、大地震在之、当寺御塔立法立星本ヨリ折レテ落畢、其後為寺門之沙汰、或ハ寺僧郷民勧進、或ハ年貢供料借要、廻種々之秘計、同年十二月晦日造功如元成畢、其内別当御房懐雅御奉加五貫文在之、」
 ここでは、法隆寺が中心となり、地震によって崩壊した塔の修復のために動いていることがわかる。その手段とは、①僧や郷民による勧進、②年貢料の前借、③法隆寺別当(当時の法隆寺のトップで、興福寺僧)による奉加金であった。このように復興に向けた動き、この史料でいうところの「種々の秘計を巡らす」ことで金策を工面し、元のごとく復興へと導いたのである。中世の場合は、国家的規模というより、荘園領主等の地域的な有力者が中心であり、復興のための種々の施策には限界もあったが、このような復興への姿勢は、現代とも変わらない、時代を問わず必要なものであったといえる。

おわりに

 以上中世の大和での地震について主に考察してきたが、中世における大和国での地震災害について、海溝型地震や内陸地震によって、確かに被害があったことを提示した。地震による津波の被害については、今も昔も変わらない脅威が確かに存在していた。同時に、寺社の記録が中心とはいえ、確かに寺院建築等大規模な建造物への大きな被害がもたらした点、また、地震が人々に与えた衝撃や恐怖についても、現代と変わることのない描写が見られた。建造物については、戦国後期の洛中の様子を描写した「洛中洛外図屏風」に見られるが如く、洛中でも茅葺、板葺きの家屋であり、建物の下敷きとなって死亡した例は少ないと想定していたのであるが、『方丈記』や『平家物語』、『太平記』に見た通り、少なくない犠牲者が確かにいたことが確認できた。
 最後に防災への金言として、文明の進歩に伴う科学技術への過信をせず、歴史から学ぶことの重要性を訴えた寺田寅彦(一八七八~一九三五)の言葉を引用し、今日においても地震被害の脅威に晒されている我々への今後の戒めとしたい。
「人類がまだ草昧の時代を脱しなかった頃、頑丈な岩山の洞窟の中に住まっていたとすれば、大抵の地震や暴風でも平気であったろうし、これらの天変によって破壊さるべき何らの造営物をも持ち合わせなかったのである。(中略)文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力に抗するような色々の造営物を作った。そうして天晴れ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然が暴れ出して高楼を倒潰せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。(中略)それで、文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を十分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それが一向に出来ていないのはどういう訳であるか。その主なる原因は、畢竟そういう天災が極めて稀にしか起こらないので、丁度人間が前車の顚覆を忘れた頃にそろそろ後者を引き出すようになるからであろう。しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えに頼ることに甚だ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試煉に堪えたような建築様式のみを墨守してきた。それだからこうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである(以下略)」(「天災と国防」)。

(注記)

 この小論は、二〇一三年度の橿原市公民館講座の内容を文章化したものである。本論には著作権があり、無断引用、転載等は禁止します。

参考文献

寺田寅彦「天災と国防」(初出一九三四年)(千葉俊二・細川光洋編『寺田寅彦随筆選集 地震雑感/津浪と人間』中公文庫 二〇一一)
荻原尊禮編著『古地震―歴史資料と活断層からさぐる』(東京大学出版 一九八二)
萩原尊禮編著『続古地震―実像と虚像』(東京大学出版 一九八九)
宇佐見龍夫『最新版日本被害地震総覧[四一六] 二〇〇一』(東京大学出版会 二〇〇三)
北原糸子編『日本災害史』(吉川弘文館 二〇〇六)
湯浅吉美「九条兼実の地震観―『玉葉』に見る地震記事の検討―」(『埼玉学園大学紀要(人間学部篇)第九号』 二〇〇九)
小林健彦「日本の戦国期に於ける災害対処の文化史―事例の検出と人々の災害観を中心としてー」(『駒沢史学』七六号 二〇一一)
寒川旭『地震の日本史』増補版(中公新書 二〇一一)

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