源頼光と頼光四天王の家系図を追う旅
自称歴史オタク、最近古墳の名前を全く覚えていないことがわかって絶望してるMataです。こんにちは。
今日語っていくのは前回に続きまして源頼光関係のもの。しかし、前回とは打って変わって妖怪の話は無しでただ只管彼と四天王の親戚を辿っていこうというものになります。上手く行けば有名なあの人とも繋がることもあるかも……!!
前回の記事を読んでいない方はそちらから読んでいただければ理解しやすいと思います。
それでは彼らの系譜を解き明かしていきましょう。
源頼光
まず最初に源頼光の家系図を見ていきましょう。彼は出自も子孫も全てはっきりしているので家系図は作りやすいです。
まず前提として、清和天皇から伸びる清和源氏の系図を書いていきます。
さて、この図からどんどん膨らませていきましょう。頼光の家系図なのでまずは頼光の子孫から。
源頼政
源頼光の直系の子孫として有名なのは源頼政です。平安末期の人物ですね。治承・寿永の乱の前、以仁王の挙兵に従って平清盛を攻めるということで高校の教科書にも重要人物として出ています。鎌倉殿の13人にも出ていましたね。
彼にはある伝説があります。
それは鵺退治です。鵺とは顔が猿、胴体が狸で肢は虎。尾が蛇で出来ている妖怪です。さしずめ妖怪界のキメラ。タイラント。有名な妖怪ですが初出はこの頼政伝説から。頼政はこれを弓矢で射止めて退治し、名を挙げました。
相模
百人一首に掲載されているこの句。競技世界では2字決まりと言って、「うら」と読まれたら下は「こひ」しか無く、一瞬で勝負が決まる句です(他に2字決まりの句は41枚あります)。
作者は頼光の養子、相模。恋多き女性と知られ、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人として数えられています。この句も恋愛関係を謳った句で、失恋した自分の噂のせいで自分の評判が落ちることを悔いているものです。
次は頼信側を生やしていきましょうか。頼信側は知名度がある人たちばかりなので書きやすいです。
有名どこがパーっと出てきましたね。頼義は前九年、義家は後三年の役で活躍し、義親は大悪党として名を馳せ、為義は保元の乱で崇徳上皇に味方して敗れました。義朝は平治の乱で平清盛に敗れましたが、息子の頼朝たちが幕府を開くことになります。鎌倉殿の13人を思い出した人も多いのでは?
源氏を広げるのはここまでにしましょう。次は藤原氏との関わりに広げていきます。
結構意外な人たちが出てきました。藤原道綱母や藤原兼家など大物揃い。どうやら道綱母周辺の人物は頼光と深い関係があったようです。
藤原倫寧
源経基の義理の孫に当たる人物です。この人はあまり有名ではありませんが、子供に藤原道綱母と菅原孝標が居ます。この人は元々、頼光の住処として知られる一条邸を住処としていました。
一条邸は経基の屋敷であったこともあり、経基→倫寧と継承された可能性が高いです。
藤原道綱母
藤原倫寧の娘で蜻蛉日記の作者、藤原道綱母。「嘆きつつ…」の句はあまりにも有名です。彼女と頼光の関係は義祖父と祖父が一致していることと、互いに子供の舅、姑であること(これを相舅といいます)です。
そして道綱母は父親とともに一条邸で暮らしていました。それは頼光の手に渡ってからも変わらず、息子の道綱が生まれても息子とともに暮らしたそうです。
道綱はやがて家主の頼光の娘婿となり、頼光が死んだ後も一条邸に住み続けたといいます。
この一条邸を巡る藤原家との関係は、道綱母を通して藤原兼家そして道長と、より両者の間柄を密接にしていくことに繋がるのです。
藤原保昌&保輔
清和源氏家系図(藤原南家との関係)続いてもう一回頼信の方に目を移しましょう。頼信の母親は藤原致忠の娘です。藤原致忠は前回の記事でも登場しましたね。頼光とともに酒呑童子を倒した藤原保昌と大盗賊として名を馳せた藤原保輔の父親です。今回は便宜上、藤原保輔は平将門の家臣の子供などではなく致忠の息子としています。だって、あれ馬琴の創作だし。藤原保昌、保輔については前回の記事に詳しく載っているのでご覧あれ。
頼光から保昌を見ると、義理の弟の母親の兄(義理の義理の伯父?)という存在です。因みに頼光のほうが年上です。
さて、ここまでの情報を簡単にまとめたのが下の図になります。
まあ複雑ですね。藤原氏と密接に繋がって権力を手にした源氏の戦略高さがこの家系図からも分かります。
渡辺綱
続いては頼光四天王の筆頭、渡辺綱です。彼は渡辺氏の祖として有名ですが、元々は源氏の血筋でした。最も、源氏の血筋と言えど頼光や頼信などと同じ清和源氏ではなく別の系統ですが。
彼は嵯峨源氏の家に生まれ、父親である源宛がすぐ死んでしまったため、満仲の娘婿である源敦の養子として育てられます。
実父の源宛は嵯峨源氏と呼ばれる嵯峨天皇から分別された源氏の一族、養父の源敦は仁明天皇から分別された仁明源氏という一族です。
源融
渡辺綱の四代前のご先祖様、源融。初めて天皇から源の姓を賜った人で、嵯峨天皇期に従一位左大臣(内閣の大臣レベル)にまで登り詰めた平安時代初期の有力貴族です。
ちなみに紫式部の書いた「源氏物語」の主人公、光源氏のモデルと言われています。
和歌の方面でも有名で、百人一首にて河原左大臣という名前で採用されています。上の句中七の「しのぶもぢずり」とは、忍捩摺という漢字を書きます。陸奥の名産品である染物の一つで、この言葉と恋を「忍ぶ」ことを掛けたこの和歌は今でも源融の和歌の実力を伝えています。
源宛
渡辺綱の父親、源宛(あつる)。渡辺綱が生まれたその年に21歳で死去したといいます。彼の名が残っているのは今昔物語集。「巻二十五第三話 武者の一騎打ち」にて登場しています。
源宛と平良文はライバル同士。仲が悪くいつも競い合っています。平良文はこの後出てきますが、碓井貞光の父親です。平良文については後で説明するとして、取り敢えず、彼らの仲が険悪になりすぎて遂に私闘が始まります。軍隊まで用意したこの合戦、最後は宛と良文の一騎打ちで締めることになりました。しかし、実力は互角。お互いを認めあった二人は無二の友として友情を育みましたとさ、という話です。
因みに渡辺綱の養父にあたる仁明源氏一族ですが、彼らについては不明なところがありすぎて説明は省かせていただきます。
碓井貞光
頼光四天王二番手、碓井貞光の本名は平忠通というのが有力です(他にも説はある)。
平忠通。彼は文献によって誰の息子かがコロコロ変わり、家系図を作成する上でどれか一つに決めなければなりません。
今回は先程登場した平良文の末子でありその後良文の次男、忠頼の養子になったという体で話を進めていきます。
平良文
先程も登場した平良文。彼の子孫には和田氏、三浦氏、上総氏、畠山氏、千葉氏と治承・寿永の乱で活躍し、鎌倉幕府で主要な官僚となった一族がゴロゴロ居ます。ただ、肝心の彼については不明なところが多く、甥の平将門を援護しただとか、そうと思えば平将門を裏切ったり、うーん中々謎が多い。私の勉強不足でもあるんですけどね。ただ、桓武平氏良文流の名前は有名です。
平忠常
1028年。平忠常の乱勃発。道長の死後一年も経たないうちに朝廷に対して反乱が起こりました。首謀者の名前は平忠常。源頼光の弟、頼信の家臣で乱暴者だったといいます。彼は上総や下総、安房など現在の千葉県一帯を占領し、朝廷軍と戦いました。が、元主君である頼信が平定に向かうと彼は戦わず矛を収めます。そして捕らえられ都へ護送中に病気でなくなったといいます。高校日本史、平安時代の重要語句にもなっている彼は平忠通の弟にあたります。
さて、碓井貞光、もとい平忠通の子孫を伸ばしていきましょう。
これぞ鎌倉殿の13人。三浦義澄、三浦義村、和田義盛。
ああなんて血生臭い。さて紹介に移りましょうか。
三浦義村
三浦義村。鎌倉殿の13人で一躍有名になりました。通称平六。源頼朝率いる平氏追討軍に父義澄と共に参戦し活躍しました。その後は鎌倉幕府の中で起こる凄惨な勢力争いをのらりくらりと躱し、梶原景時や畠山重忠など鎌倉幕府の重要人物を次々と粛清していきます。実朝暗殺の黒幕とも言われていて、公暁を唆して実朝を殺させ、その後公暁を暗殺したといいます。事実、公暁の死亡場所は三浦義村邸です。
鎌倉殿の13人の最終回に衝撃を受けた人も多いはず…
和田義盛
初代侍所別当。初期から源頼朝に仕え、平氏追討で活躍。初代侍所別当となり鎌倉幕府を支えますが、その強大さを危険視した北条義時と三浦義村によって粛清されます(和田合戦)。この出来事は義盛を気に入っていた実朝をひどく悲しませたといいます。太宰治の書いた「右大臣実朝」ではこの出来事を境に実朝がどんどん壊れていきます。
ちなみに、義盛は義仲無き後の巴御前の夫となったといい、彼の息子の朝比奈義秀は巴御前が産んだ、とされています。この朝比奈義秀は死後、地獄の温泉巡りをしたとしても有名です。なんでも136個全ての温泉を巡ったとか。
さて、他の平氏もどんどん広げましょう。
平清盛や北条氏まで何か鎌倉時代の重要人物全員出てきちゃいました。時代は鎌倉殿の13人。死ぬどんどん首ちょんぱ!!
試しに頼光と渡辺綱の系譜とこれを合成してみましょう。
偉いことになった。
平安時代最初期の桓武天皇から始まり、嵯峨天皇や源融など平安初期の人物を辿り、平安中期の平将門や源経基など武士の登場を見て、平安末期の藤原道長や源頼光など名だたる貴族が現れ、前九年や後三年を経て平治保元治承・寿永の乱が終わり、もう最終的には鎌倉時代初期に入っちゃってるじゃないですか!!西暦で言うと737年(桓武天皇が生まれた年)から1242年(北条泰時が死んだ年)まで約500年、家系図で見てきたことになります。スケールでかすぎ。もうこの記事これで終わりでいいんじゃないかな。
まだ後二人居るんですよ!二人も!!
卜部季武
次は卜部季武。別名は平季武と言いますが、平家とは何の関係もありません。実は彼は坂上田村麻呂の末裔なのです。詳しく家系図を見ていきましょう。
卜部季武は坂上季長の息子です。季長の父親、つまり季武の祖父は坂上頼次。頼光の父親の満仲の家臣です。
満仲は多田源氏という武士団を形成したとして有名ですが、その武士団の中心を頼次に任命しました。恐らくその縁で孫の卜部季武も頼光に仕えるようになったのでしょう。因みに、この武士団の棟梁を山本荘司と言い、季武は三代目に当たります。
坂上田村麻呂
初代征夷大将軍。坂上田村麻呂。桓武天皇に命じられて蝦夷を平定した奈良時代から平安時代にかけて活躍した豪傑が卜部季武の直系の先祖です。
実は、彼には妖怪退治の伝説があります。相手取ったのは大嶽丸や鈴鹿御前など名だたる妖怪ばかり。大嶽丸は酒呑童子と並ぶ三大妖怪の一人に数えられています。結婚相手も自身が退治した鈴鹿御前。
四天王の祖先は妖怪と共に平安の世を駆け抜けた豪傑でした。
坂上是則
卜部季武の祖父の兄にあたる人物、坂上是則。
著名な歌人で、三十六歌仙の一人として名を連ねています。
有名な句としてこちら。
またまた百人一首です。平安時代の著名な歌人はほとんど百人一首に選出されてますからね。居ない方がおかしいというものでしょう。吉野の雪と、空に浮かぶ有明の月を対比させたこの歌は情景描写がとても丁寧でこの世界に引き込まれそうです。
因みにこの人蹴鞠も得意らしく、どうやらリフティングを206回も続けたとかなんとか。
坂田金時
坂田金時の父親は龍です。母親は山姥です。終わります…っていやいやいや、そんなんで片付けられるか!
金太郎として有名な彼ですが、ちゃんと元になった人は居ます。ただ系譜とかその他諸々色々不明なんです(私の勉強不足かもしれないけど)。悪しからず。
終わりに
はい、頼光達の家系図を巡る旅はこれにて終いです。
源頼光は源氏だから源氏のビッグネームが出てくるのは当然としても、藤原北家、平氏、北条氏、果ては三浦氏や坂上氏など、これでもか、という程多くの有名人が出てきました。
特に、碓井貞光の子孫の三浦氏と和田氏は鎌倉史を学ぶ上でめちゃめちゃ重要になってきます。頼光の部下たちは生まれた家もよろしかった、という感じですかね(まとめ方雑)
以下に全部の系譜をまとめた図を貼っておきます。複雑ですがここまで読んでくれた人ならきっと面白く思ってくれると思ってます。
ここまでお読みいただき、有難うございました!
また次の記事でお会いしましょう!