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提示部のリピートの有無についての考察

✳️本記事は2021年3月に投稿された記事を加筆訂正したものです

この度は少し気になっていた点―テーマのリピートについて取り上げたいと思う。

そもそも、どうしてスコアにリピートの指示があるのかについては、一概に言えないところがあるー「作曲家の意思」と言ってしまえばそれまでのことだが―。ただ想像できるのは、単純にテーマに親しんでもらうための手段だったのではないか、と思う。「繰り返しは記憶の母」なのである。そんな実際的な理由なのであれば、記憶媒体が豊富な現代にあって、「スコアに書かれているから」というだけの理由でリピートを「機械的に」敢行するのはどうなのかなぁ、と感じざるを得ない。そう、「必然性」が必要だ。「心から」の理由が必要なのだ。

近年特に「原典主義」の傾向が強くなり、「スコアに忠実」が絶対視されるようになって、音楽家たちはそれらの「制限」の中で、実力なり個性なりを発揮していかなくてはならなくなった。それゆえか、みんな同じ演奏に聞こえてしまう―結果僅かな違いを嗜むことになり、それがマニアを生んだ、ともいえる―。もし「変わってる」ように聞こえるとしたなら、それは「間違い」とまでは言わなくとも「非正統的」であり、まともではないのだ。

対して、往年の演奏家たちの生み出す音楽は皆イキイキとしていた、と感じるのは僕だけだろうか。ミスタッチあり、スコアの改変あり、強弱記号を反転させ、速度表示を独自に読み替える。なんなら自作のフレーズまで挿入してしまう。何て楽しい時代であったことか―。個性重視、個性優先だったのだ。「心が」伴っていたのだ。度量が深かった。その背後にはあらゆるものに対する「愛」があった。「理解」があったのだ。そして「許し」も―。

往年の音楽家たちは大概、リピートをカットしていたのでないだろうか。残された録音の大半はそれを示していないだろうか(コンサートでは異なるかもしれない)。録音技術の問題もあった―SPやLPに収めるために。そちらの理由の方が多そうだ。長時間録音が可能となったこともリピート実行の現実的理由の一つなのかもしれない。マーラーやブルックナー、ワーグナーだけが恩恵を受けたわけじゃなかったようだ。


リピートの有無には音楽形式も関係する。当てはまりやすいのは「ソナタ形式」の楽曲だ。当然作品も限定されてくる。「古典派」に多いのは言うまでもないが、「近現代」ではそもそもリピートする必要がない音楽が多いようである。
(リピートだけで成り立っているミニマル音楽―例えばスティーブ・ライヒなど―は別である)


モーツァルト/「プラハ」交響曲K.504を例にとっても、リピートをすべて敢行すると、そうでない場合に比べて単純に2倍近くの演奏時間を要することになる。特に第1楽章にそれは顕著だ。往年の指揮者 (ここではシューリヒト盤) は10分前後。これが例えば提示部の反復を全て行っているアーノンクール盤だと19分以上かかる。コンパクトな印象だったのが、一気に「大曲」へと一変してしまう。


そこまでではないにしても、聞く印象が少し変わる場合もある。ロマン派においては例えば、ドヴォルザーク/「新世界」交響曲第1楽章やブラームス/交響曲第1~3番第1楽章、ショパン/ピアノ・ソナタ第2~3番第1楽章などがそうだ。曲によっては「また始まった」と思ってしまうかもしれない―。
(僕は以前「新世界」にそれを感じたことがある)


どうやら「リピートの有無」は音楽家の「音楽」に対する見方、想いを明らかにする場合があるようだ。
リスナーとしては、好きなフレーズが繰り返し聞けるのは素直に嬉しい。その時間が少しでも長く続いて欲しいのだ―。そしてリピートの「before/after」で聴く印象が異なる場合があるのも楽しい。「アフター」において、最初にはなかった絶妙な表情が付け加えられているのである (主にピリオド系に多い。これには音楽史的背景や即興的要素が関係してそうだ) 。その場合もリピート大歓迎である―。


最近は大胆に個性を打ち出す演奏家も出てきている。嬉しいことだ。濃厚な音楽性で聴かせてくれるアーティストだと、「リピートの有無」がどうこう、といった細かいことが全く気にならなくなる。
偉大な音楽の前では、それはとてもとても小さなことなのだ。

人生は一度きり。でも、もしリピートするのなら―。

梨本うい(作詞&作曲)/「リピート」
初音ミク・ヴァージョンで―。




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