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イェルク・デームス/「月影の寺で弾く」

コンサートで来日中だったイェルク・デームスが録音の少ないグロトリアンを弾いたアルバム。2001年4月録音。当時考えられる最高の条件(無指向性マイクワンペアによる高度なワンポイント録音、ビクターの最新技術K2レーザーカッティング処理を施した24K純金仕上げのゴールドCD)で仕上げられた。ロケーション場所は横浜テラノホールである。

デームスの演奏は全13巻からなる「シューマン/ピアノ曲全集」で親しませてもらっていた。往年のファンであれば「ウィーン三羽烏」の一人として認知されていることだろう―あとの二人はパウル・バドゥラ=スコダとフリードリヒ・グルダ。「ウィーン訛り」とはよく見聞きする言葉だが、おそらくは地で表現できたピアニストたちである (実際にどういう表現なのかを言葉に乗せて説明するのは困難であり無謀であろう。ウィーンの人々に、そして生活と土地の空気に長年触れて親しんできた者だけが、真の意味で得心できるものだと思う。誤解を恐れずにいえば、ウィーンの言語体系、そのイントネーションなどに深く根ざしているのではなかろうか) 。シューマンにおけるデームスの奏楽はぎこちなさを隠さない。それはデームスだからかシューマンの書法によるのか区別がつかないほど「音楽」と一体化していた。ベーゼンドルファーの音色を生かし、時には内省的に、時には激情に任せた演奏で、音楽感情の機微を「語る」ようなピアニズムだったと思う。全集は1970年代の演奏&録音なので、この度の高音質録音とオーディオ的には比べ物にならないわけだが、デームスのピアノがこんなに滋味深く聞こえたのは初めて。収録されたシューマンの小品たち―とりわけ「夕べの歌」「トロイメライ」には筆舌に尽くしがたい感慨を覚えた。


いうまでもなく、リスナーを深い感慨に至らせる要因には前述の「条件」が大きく関係しているが、最大の理由は「Grotrian Steinweg 1992 no.225」というピアノの存在だろう。時々読ませていただいているブログに、これまで聞いたことがないピアノの名前を発見できたのが全ての始まりだった。「グロトリアン」って宇宙人みたいなネーミングだな、と思いつつ気になって調べたら、スタインウェイと深い関わりのあるピアノで、驚いたことにクララ・シューマンが惚れ込んだピアノだと知り、一気に惹きこまれた (他にも称賛したピアニストにギーゼキングやアラウ、ケンプ、ポゴレリチなどの名が挙げられる) 。もちろんデームスもその1人で、かねてからグロトリアンを弾いてのコンサート&レコーディングを熱望していたという。ライナーノーツ冒頭には「日本の皆様へのメッセージ」と称してデームス氏自ら紹介文を寄稿し、思いの丈を書き綴っている。

私は音楽愛好家の皆様がこのピアノが紡ぎ出す特別な響きに遭遇された時、何故クララ・シューマンやヴァルター・ギーゼキングがグロトリアンを愛用し続けたかが、直ぐにお解りになることと確信しております。 このCDは私の長い演奏活動の中でも特筆に値する出色の出来栄えに仕上がったことを付け加えます。

デームスが演奏&録音したのと同じピアノとホールでの演奏―。


このアルバムはワンポイント録音のためか、ピアノの直接音が生々しいほど。グロトリアンが持つ艶やかで芳醇な音色と轟く低音が極めてリアルに再生され、ハイスペックのオーディオシステムで聴くなら至上の聴体験が味わえそうだ。大概のソロ・アルバムは、ピアノの音像を生かしつつ、適度にホールトーンをブレンドするようなサウンドだが、数多に溢れたピアノCDとは明らかに一線を画すのが当アルバムだといえよう。レコーディングの経緯や様子はプロデューサーの田村彰啓氏が「録音の虫 マエストロに肉迫」という見出しでライナーノーツに記している。僕はデームスのことをCD音源でしか知らなかったが、ここには彼のあたたかな人柄に加え、音楽に対する精緻で妥協なきスタンスがはっきり示されていたのが驚きだった (僕はさぞかし優雅に音を紡いで、ごくごく自然体で音楽に相対していたのだと勝手に想像していた)。スタッフとのやり取りのなかで録音マイクについて語ったり、プレイバックの時オープンタイプのヘッドフォンを持参してきてたりと、なかなか熱心なご様子。レコーディングは来日コンサートの前後に行われたが、演奏会後も打ち上げは程々にして早速録音チェックに入り、後半のレコーディングに勤しむ。トラック間の秒数を実際のコンサートと同じタイミングにするよう要求したりと拘りを見せる。

「拘り」といえば、デームスは50台以上の歴史的ピアノのコレクションを所有していて、ベートーヴェンと同時代のブロードウッドを弾いた録音も残っているが、ここテラノホールにもグロトリアンのほかに1864年製のブロードウッドが備えられていて、デームスはそれでベートーヴェン/悲愴ソナタをコンサートで弾いたらしい。田村プロデューサーは録音を期待したが、デームスは断ったそうだ。その理由は、ベートーヴェンが実際に弾いたものより後の時代のブロードウッドで、CDにして残すような演奏ではないとのこと。まさに妥協なきスタンスなのである。

ベートーヴェン生誕200年記念コンサートより。デームスはブロードウッドを弾いている。



アルバム1曲目はデームスが得意曲だといって憚らないフランク/前奏曲、フーガと変奏曲Op.18。オリジナルはオルガン曲だが、ここで弾かれているのはデームスによるピアノ編曲版。よく耳にするバウアー編曲版とどこが違うのか、聴感上は特に差異は感じられなかった。フランクの作品中、最も印象深い音楽だが、グロトリアンで聴くデームスの演奏は、ため息が出ないほど (息をつかせないほど) 素晴らしい。一音一音に至福が込められている。この感銘は実際にアルバムを聴いて感じてもらうほかない。

「Andantino cantabile」で始まるプレリュードの美しさは格別。フーガの次に現れる変奏曲は冒頭アンダンティーノのテーマに依るので、あの美しい主題が再現されることとなる。ビゼーが絶賛し、サン=サーンスに献呈されたこの作品は一度でも聴いたら間違いなく心に残り、生涯の財産となること請け合いである。

デームスによるフランク/ピアノ作品集より当曲を。

フランクの珍しいピアノ小品を10曲ほど―。



フランクに続いて演奏されたのが、デームスの自作。これまで彼が作曲を手掛けていたことを知らなかった。主に室内楽や器楽曲、声楽曲を中心に作品を残しているとのこと。ここでは2つの作品が弾かれているが、どれも前衛的ではなく、デームスが親しみ吸収してきた数々の作曲家の作品を思い起こさせるような美しい音楽ばかりである。

最初の作品「星の夜 (Nuit d'etoiles)」はOp.14として作曲されている。ノクターンのような曲想で、どこか懐かしさすら感じる―ノスタルジアではなく、耳馴染みがあるという意味において。グルック/精霊の踊りや、シューマン/幻想曲ハ長調Op.17~第3楽章を思わせるフレーズが聴こえてくる。思えばシューマンのそれは当初「星の冠」というタイトルがつけられていた。ちなみに同名の歌曲がドビュッシーにもあるのは興味深い。

2曲目の「夕べの鐘」は「6 Souvenirs Op.6」からの1曲。デームス自身お気に入りだった作品らしい。スコアには冒頭に「Paisible」とあり、平和なイメージが希求される。平穏な想い出を振り返るようでもあり、「平和の鐘」とも繋がりそうなイマジネーションを掻き立てる小品である。

デームス/「星の夜」。チェロ&ピアノの演奏で―。

こちらはドビュッシーの「星の輝く夜 (星月夜)」。
彼が手掛けた最初の歌曲だともいわれる。

デームス/「夕べの鐘」。最初で最後のレッスンを受けたというピアニストの演奏で。

デームス/ヴァイオリン・ソナタ Op.7~第4楽章。
シューマン風の味わいが溢れる。

デームスが補筆完成させたというシューベルト/フラグメント ハ短調 D916c。彼はピアノ・ソナタの終楽章として演奏したこともあるという。



アルバム4曲目以降は、デームス曰く「インスピレーションが湧き上がって」弾き込んだ曲目なのだそうである。その結果、まずシューマンの作品が続けて演奏された。最初の「夕べの歌」は「小さな子供と大きな子供のための12のピアノ小品集」Op.85の12曲目であり、当時ドイツでは「トロイメライ」よりもはるかに知られていたそうだ。オリジナルはピアノ連弾曲だが、様々な演奏ヴァージョンが存在し、人気の高さを感じさせる (当盤ではピアノ・ソロで演奏。編曲者は不明だが、おそらくデームスであろう) 。曲集タイトルの「大きな子供」とは誰のことを指すのか、シューマニアーナの方々なら容易に察しがつくだろう―クララは以前ロベルトのことをそう呼んでいた―。この後に収録されている「子供のためのアルバム」Op.68~第32曲「シェエラザード」、第35曲「ミニョン」と同様、子煩悩だったシューマンの優しさが伝わる音楽である。ロベルト自身は勿論のこと、クララが (そして後のブラームスが) 子供たちに弾いて聞かせたり、子供たちがクララやヨハネスと連弾する様子が想像される。実際にクララが弾いたピアノそのものではないにせよ―彼女が愛奏したグロトリアンで聴けるのは何かの縁のようなものすら感じてしまう。

「夕べの歌」をベンジャミン・グローヴナーによるピアノ・ソロで。

こちらはヨアヒム編曲で。イッサーリスによるチェロ・ヴァージョンも素晴らしい。

さらにオーボエ&ピアノ版。あたたかな音色に心癒される―。

1826年製コンラート・グラーフのピアノによるオリジナル連弾版で―。


続いて「森の情景」Op.82~第7曲「予言の鳥」と、「子供の情景」Op.15~第7曲「トロイメライ」&第13曲「詩人は語る」が演奏されている。Op.82については下記リンクに示された以前の記事に詳細を記したが、他の作品では当盤 (新しい録音) の方が演奏時間が短い傾向にあるのに、「予言の鳥」だけ同じ演奏時間(2分57秒) というのが面白い。さらに「グロトリアン効果」のおかげでより神秘的に、より内面的でニュアンス豊かな音楽が聞き手に提供されている。

1837年製エラールによる「予言の鳥」。このシュタイアー盤も同じタイムだった。

こちらは (恐怖の) アファナシエフ盤。2倍以上のタイム=6分15秒で演奏―。

「トロイメライ」をデームスの演奏で。2008年の記念リサイタルより。まさに詩人が夢を語るようだ―。

先ほどのシュタイアー盤だが、驚きの1分46秒。「夢」が駆け足で過ぎて行く―。



アルバム後半にはドビュッシーの作品が選ばれた。実はデームスのドビュッシーを今回初めて聴く。勝手な先入観だが、デームスとドビュッシーはどうも結び付かなかった。でも当アルバムの演奏を聴いてその思いは氷解した。デームスにとってドビュッシーはシューマンと同列に置かれた存在なのだ。僕自身あまりドビュッシーのピアノ曲をすすんで聴いてこなかったから、ドビュッシーの良い聴き手ではないけれど、このデームスの演奏は不思議と受け入れられた。選曲が (キラキラしない) 地味な色彩のナンバーだったからだろうか。シューマンに近い内面性を感じたからかも。普通のドビュッシー演奏での感覚ではないから、デームスならではの感触なのだろう―そこに「グロトリアン効果」が加わり、耳をそばだてられたのだと思う。

シューマンの「ユーゲント・アルバム」や「子供の情景」に合わせたのだろう、ドビュッシー/「子供の領分」~第5曲「小さな羊飼い」、第1曲「グラドウス・アド・パルナッスム博士」がまずセレクト。聞いたのはミケランジェリ盤以来だ―何十年かぶりだろう。ミケランジェリ盤だったから聞かなくなった可能性もある。ラフマニノフの演奏は素晴らしかった記憶があるから―。

1921年録音。ラフマニノフによるドビュッシー。


そしてドビュッシー/前奏曲集第1巻~第8曲「亜麻色の髪の乙女」、第6曲「雪の上の足跡」、そして第10曲「沈める寺」が収録される―この辺りから、デームスの演奏が本領を発揮してゆくイメージを受けた。グロトリアンの芳醇な音色で弾かれる名曲たちは実に素晴らしい。ある種のいやらしさがなく、名曲でありながら通俗的ではない。音楽に聴き手のイマジネーションを発動させる実直さがある。それはデームス自身が培ってきた音楽性であり、「グロトリアン」という銘器とのコラボレーションが生んだ成果なのである。

ある意味、当アルバムのクライマックスを形成するのが「沈める寺」である (ジャケット写真もそれを示しているのではないだろうか) 。ライナーノーツでは「沈める寺」のデームスの演奏解釈が示されている。興味深かったのは「何処に沈んでいるか―湖か、海か」の問いに、「ドビュッシーの解釈は海だろう」と答えているところ。確かに海を愛したドビュッシーらしい (葛飾北斎を出すまでもない) 。それと「カテドラルが水面に浮かび上がるようだ」という感想に、デームスは「あくまでも暗い水底での出来事」だという―これには驚いた。僕も水面に浮上するものだと思っていたからだ―。復活祭の日曜日だけ、神の憐れみにより満月の光が水底に届き、沈んでいる寺が (水底で) 全容を現す。やがて音楽とともにカテドラルは暗闇の中に消えてゆくのである。通常知られている伝説とは異なる見解かもしれない―デームスの解釈だと寺院は沈んだままで、ドラマティックな仕方で人目に晒されることはないからだ―。今では「音楽」だけがそのカテドラルの存在を顕現化するのである。そしてグロトリアンが持つ低音域の「雷のような迫力」が存分に発揮されるのもこの瞬間である。「威容」という言葉が相応しい音楽。伝説ではオルガンや少年たちの聖歌が聞こえてくるが、グロトリアンの多彩で威容を誇る音色はそれら全てを体現してしまったかのようだ。まさに「息もつけない」演奏である―。

「東海道五十三次」の絵のひとつ。デームスは「ドビュッシー/雪の上の足跡と視覚的にも情感的にも一致する」と語る。


ドビュッシー/前奏曲集第1巻。全12曲をデームスの演奏で―。

貴重なコラボレーション。庄司紗矢香&プレスラーのドビュッシー/「亜麻色の髪の乙女」を―。


クライマックスを経た後、アルバム・タイトル「月影の寺に弾く」と直接関わりのあるドビュッシーの音楽が演奏される―「映像」第2集~第2曲「かくて月は廃寺に落つ」と前奏曲集第2巻~第7曲「月光に濡れる謁見のテラス」、そして「ベルガマスク組曲」~第3曲「月の光」である。こうして聴くと、このアルバムが「黄昏―夜―月」をイメージさせる楽曲で構成されていることに今更のように気づかされる。「沈める寺」の余韻が残るなか、より音楽は内省的になってゆき、月の光が放つ神秘的なベールに包みこまれるかのような心地よい感覚を味わえる。そして最後には名曲「月の光」が淡々と弾かれる。音色と響きが最優先のイメージの曲だが、はたしてそうなのだろうか?デームスの演奏は「Non」と言っているような気がする。

チョ・ソンジンとクリスティアン・ツィメルマン。彼らはデームスとは違うピアニズムを聞かせるが、こちらの方が21世紀的なドビュッシーなのかもしれない。

デームスによる「月の光」。当盤4分51秒に近い音源で。デームスが演奏&録音したテラノホールでは、その夜、月は見えていただろうか―。



アルバム最後には、デームスの弟子である平賀寿子氏をセコンドに迎えて、ドビュッシーのピアノ連弾曲「小組曲」がレコーディングされた。グロトリアンによる連弾とは豪華極まるが、アルバムとしてはボーナストラック的な扱いのように感じている。

懐かしのパイヤール盤による管弦楽編曲版で―。


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