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保守系自由主義国家を支える「思想ブロックチェーン」
思想研究の続きです!
日本が「保守系自由主義宣言」をしたあと、みんなが道に迷うことがないように、拠り所となる「思想チェーン」を特定しておく必要があります!
そして、この思想チェーンを知り、その理解を深め、私たちの社会はどういう成り立ちなのか説明できることが重要になるのです。
まず、保守系自由主義は個人主義と親和性が高いものです。
「多様性の尊重」とよく言いますが、「多様性の尊重」とは、つまり一人一人の尊厳を認めるということです。
大事にされるものは、まさにその一人一人であって、例えば、男が大事にされるとか、女が大事にされるとか、マイノリティが大事にされるとか、そういう外形的なまたは他者から見た属性の尊重を意味しません。まさに主体性に基づく一人一人を尊重することを指していて、自由主義は個人主義と噛み合うのです。
また、個人が自分で生きていくのにお金は必要だから、経済発展の仕組みとしての資本主義と親和性が高いことになります。自由主義では個人が稼ぐことが重要です。稼ぐにはまず稼ぐ場や稼げる事業が必要ですが、資本主義はその原型となる仕組みを提供します。
そして、自由主義社会が個人主義的だからこそ、「私たちのこと」をどのくらい納得感をもって決められるかということは非常に重要です。
この点で、私たちの一般意志を反映させる仕組みとしての民主主義と噛み合わせが良いと考えられます。
さらに、自由主義は、自由を最大化したいので、自分の稼ぎは自分が手にすることを当然のこととして求めている、という点で、「小さな政府」と親和性が高くなります。
すでに明らかなように、「大きな政府」は、汚職、経済の停滞、権力の集中、恣意的な政治、ポピュリズム(大衆迎合主義、ばら撒き・国民=お友達の政治)、国民の分断、「言えば対立」社会、言葉と裏腹な現実、言葉の意味の勝手な変更、生活苦と効果のない対策の増加、社会不安の増大、道徳心の崩壊、暴力の一般化、治安の急激な悪化などいいことは一つもありませんでした。日本でもアメリカでも欧州でも、どこの先進国でも同じ状況です。大きな政府は国家の危機を早めるのです。
「大きな政府」では財政出動が可能です。「小さな政府」では、それができないという印象操作をされていますが、必要な財政出動はできます。むしろ、必要なことを特定するので、財政に群がるゾンビを生まないぶん、まともな政治を維持できるでしょう。
保守系であることは、文化相対論(文化相対主義)であることです。
その国の文化はその国の文化の中で考える。歴史上のことは、その歴史の時代の中で考える。したがって、日本のことは日本のルーツとアイデンティティを土台として考えるものです。
文化相対主義は、その時の文化をその時の文化で評価し、この歴史をその時代の歴史として評価します。
文化相対主義は、反歴史修正主義です。これが、多様性の尊重です。
この国の、今の時代、今の文化、今の政治体制、今の政治思想、今の憲法、今の法律のもとで行われたことは、今の価値観で評価できるものです。過去の出来事に「今の」を持ち込むことは冒涜に等しい行為であり、今の価値観を歴史に押し付けるという歴史修正主義は、そもそもが強者のイデオロギーであり、侵略のイデオロギーまたは権力闘争と言えるのではないでしょうか。
「保守系自由主義」のイメージは、自分がやりたいことをやって(自由主義、自由と活力、競争力)、かつ一人一人は選択的であって(個人主義)、 お金を集めて、「鉱脈」を掘り返して、稼いで、蓄えて、受け継いで(資本主義)、私たちのことは、合意された一般意志に基づいて私たちが議論し、私たちなりに選択し(民主主義)、「政府は余計なことをするな」と言い、政府には余計なことをさせず(「小さな政府」)、「私がする、私たちがする、私たちが見守る」姿勢で(責任を引き受ける覚悟)、法をつくり、法に合意し、法を行い、かつ法任せにせず、法を監理するものです。
どんどんイメージは膨らみます。この先、「自由主義宣言」下の日本では、自由主義に反するイデオロギーは、実効性のある状態で社会化できなくなるでしょう。
圧政を正当化し、政治的に人々の自由を奪い、抑圧と支配をもたらすイデオロギーは排除されます。
歴史的に認知された中では、全体主義、共産主義、社会主義、専制主義、独裁主義、覇権主義、セクト全体主義、封建主義、権威主義、歴史修正主義は排除され、実効性の喪失を待つことになります。
自由主義宣言をするのですから、自由主義に反する考えは公的な意思決定の価値観から排除されるものとなり、自由主義は、非全体主義、非共産主義、非社会主義、非専制主義、非独裁主義、非覇権主義、非セクト全体主義、非封建主義、非権威主義、非歴史修正主義となります。
ただ、ここでとても重要なことがあります。それは、「排除」しても、「排斥」や「迫害」はしないということです。
その思想の実効性を拒否するが、抹殺はしないのです。
そうするのは、それが必要だからではなく、それを学ぶためです。例えば、他国に侵略戦争を仕掛けたり攻撃したりはしないとしても、防衛力を強化するために、攻撃力について学ぶのは当然のことです。
もし、いま抹殺したとしても、誰かが再びそのような考えを持つことは十分に考えられます。そのとき、それまでにその思想について議論をしていなければ、免疫がないのと同じ状態になり、見た目に新しく見えるその思想に傾倒することは十分に考えられることになります。
私たちは、学ぶのです。「それを学ぶ。違う考えを学ぶ。」学ぶことによって、「冷静かつ正当に考えればやはりそれはダメだったのだ」と、常時確認しなくてはならないのです。
万が一どこかの場面で、論理で戦えない人が何かの責任者となり、邪悪な論者に議論をふっかけられて負けたとしても、民衆が正邪善悪を判断するための体系的な正しい情報を持っていれば、簡単に誘導されることはなくなるでしょうし、そもそも自由主義宣言をしているので、パニックやヒステリーで自由主義が覆ることはありません。
だから、違う考えも存在して良いし、それをしっかり学ぶことができるのです。
「その思想を実際の政治から排除しても、人の排斥につなげないこと」がとても重要です。これを守ることが、自由の国の証明になるのです。
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