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対話と真理|第11回宗教マイノリティ理解増進勉強会【中】

「宗教と無宗教」をテーマに「第11回宗教マイノリティ理解増進勉強会」を8月23日に行いました。家庭連合からは南東京エリアの渡邊一喜・大教会長や信徒ら15名、そして2つの新宗教団体から3名の合計18名が参加。「宗教と無宗教」についての発表後、活発な意見交換が行われました。

意見交換

宗教と宗教心

A男さん(新宗教Aの信徒)
私が海外に行って気づいたこととしては、日本人こそ本当の意味での宗教心を持っていると感じるんですよね。だから宗教の概念を、宗教の定義を変えた人たちがいるなと。

例えば今、日本人で「宗教」と言うと、イコール「詐欺、マインド・コントロールする人」というイメージなんですね。

宗教は、元々は「大元の教え」です。そういう意味では日本人こそ宗教心を持ってるなというのがあります。

だから宗教のイメージを変えていこうと。むしろ「宗教、えっすごいね」「宗教、クールだね」というイメージ、「まだ物質主義なの?」と価値観を変えていくことが必要だなと思っています。

例えば2年前だと、一部のワイドショーの意見が浸透していたけど、最近明らかになってきたのは、今でも壺って言ってるのは、ごく一部の政党、党派性を持った人しかいない。だから、壺とか言っているいる人は、むしろ少数派なんです。

普通の人は逆にそんな人を見た時に嫌がるわけですよね。でもネットの世界だとあたかもその人たちが多く見える。日本人の判断基準だとみんながやってるとか、大きく見えるとそっちに流れるんですけど。最近はそんなこと言ってるのは実はごく一部じゃないかと気づき始めた。だからちょっと流れは変わってきたと思っています。

例えば、お墓とかお地蔵さんとか神社とかを踏みにじるって、普通の日本人はできないんですね。そのどっかの人はね、仏像とかを踏みつけて…

それって日本人にとってはすごく嫌なことなんです。だから日本人が嫌うのは、むしろ本当の意味の無神論者、文化を破壊する人、日本人が大事にしているものを破壊する人こそ、本当は日本人は嫌ってるんだなと思うので、逆転現象が起きると私は思ってます。

B男さん(新宗教Aの信徒)
子供の頃を思い出すと、小さい頃から見えないものが非常に好きだったんですよね。神様に関してもそうだし、宇宙人とかUFOとか非常に好きで。実はその頃、そういう僕と同じような感覚を持ってる子たちが5、6人いたんですよ。後に知ったのは全員何らかの宗教団体に属してましたね。

僕は母親が結構変わった人で、毎年、仏壇とか神棚が変わるような、毎年宗教を変えるような母親だったんで、今の宗教に出会ったのは僕が14歳の時だったんです。

なんか見えないものを求めていくのは、神の存在とか、死後の世界とか、霊の存在、そういったもの、見えないもの、なんだろうっていう追求、探求というのがどの宗教にも共通する点ですね。

そういうのを失ってしまって、唯物的なもの、物質的なものだけの世の中になってしまったら、人類の急速な衰退がおこると思います。なんか知りたい、探求したいってこの気持ちが人類を前進さしているんじゃないかと思います。

宗教と無宗教の境

C男さん(新宗教Bの元役員)
宗教と無宗教というタイトルなんですけど、これは並立しないんじゃないかなと思います。

皆さんも経験があると思うんですけど、いわゆる神仏の世界に出会ったという体験、宗教的な感動の体験があったからこそ今の自分がいるのであって、私はその体験がなければ、今、無宗教のジャンルにいると思います。

だから並列して選んで自分が無宗教でいくというんじゃなくて、宗教的な感動、それは教祖でも教えでも不思議な現象でも霊感でもいいんですけど、それに出会ったか出会ってないかの問題。違う言葉で言うと、経験者か無経験か、未経験かというね、そう感じます

「宗(むね)の教え」という意味から言いますと、その世界に入ったことで、神仏に対する考え方とか、この世の仕組みとか、あの世の仕組みを僕はすごく分かりましたね。だから大学に行くよりも、大学の10倍ぐらい行ったような感覚。

そういう宗教的な神秘体験というのがあればこそ、こういう世界にいるのであって、逆に無宗教の方々を僕はとても残念というか、上から目線じゃないんですけど、可哀想だと思います。

日常生活の中の判断基準がない。いつもうちの教会に来てる奥さんが、旦那さんに「俺が神だ」と言われているんですよ。

人間以外のところに真実の基準を求めてるのに、「俺が神だから俺の言うことを聞いていればいいんだ」って旦那さんに押し付けられる。こういうことは結構あって。

人間は無宗教だと狭い世界の中だけに生きてしまう。我々みたいに信仰という世界、精神世界が入ると宇宙規模ででかくなって、とてもすごい判断基準を与えられるってことは、すごいと思う。だから並列して書いてもらいたくないんですよ。

渡邊一喜・大教会長(家庭連合牧会者)
先ほどから言われるように、宗教と無宗教の線の引き方によって境目が変わって、全部一つだと言えば一つだと思うんですね。

私はいわゆる宗教2世なので、親から受け継いだ立場で、元々そういうものだと思って受け入れながら来たのが私にとっての感覚。私は家庭連合ですけども、「教団」と「教え」はまた違うんですよね。

私たちにとっては真の父母という教祖がいるわけですけど、その理想の姿ということと、教団が実際に組織運営をしていたりとか、私たちに語りかけてくるようなこと、いろんなことがあるわけですけど、そこには常にではないけども矛盾がやっぱりあるんですよね。

その現実と理想の乖離が常にあって、その中で葛藤はあるわけです。ただ教えの中で言う理想というものが、私も内面化してる部分もあるので、そういうような世界、そういうような未来、歴史観もそうですけれど、そういうところに導かれていく必要があると思っています。「そこに着地をするためにはどうしたらいいか」ということを考えて、自分なりに妥協したり逃げたりしながらも生きてきたつもりなんです。

そういう線引きで見ていくと、全ての人間にもちろん宗教性はあるわけですよね。

常日頃から神ということを意識してなかったとしても、自分の力ではどうしようも越えられないとか、自分の命の危機とか、自分の本当に愛する人が死ぬかもしれないとか、何か祈らざるを得ないような境地に入っていって、「神頼み」みたいなことをすることは誰もがあると思います。

宗教性というのは、目に見えないものに、最後、寄り頼むというか、必死にしがみつくというか、そういうところというのは、命に関わることが一番大きいと思いますが、あると思うんですね。

先ほど言ったように、自分自身が、私は家庭連合の中で、教えを学び、自分で実践をし掴んできた、そういう一つの宗教的な理想があるんですけども。

それと私が属して、私はそこの職員もしてますが、その組織の倫理体系とか、それが実践してきたことの、もちろん、この組織も理想を目指してはいるけれども、違いっていうところはまたあって。

この理想とか教えの段階で見ると、すべての人間には宗教性があり、理想があり、みんなが必ずしも同じ方向に今は向かっていないけれども、しかし共有できる部分があるというところでは、全部包括して見ることはできるんだと思います。

宗教と宗教の対話とか、宗教を持ってる人とそうでない人たちとの対話とかって、そういう何か装いをしなきゃいけなくなるというか、それはとても感じますよね。色々皆様のお話を聞きながら、すごく感じた部分でもあります。

D男くん(家庭連合信徒、大学生)
明らかに攻撃しようとする相手がいる中で戦うという選択肢、ずっと勝共とか、戦うとやってきて。相手側はこう「するっと」文化に浸透していったのがうまいなと。

我々の文化に対するアプローチというか、そっち方面での戦い方が明らかに弱かったんだなと。

だからそういう人たちとの向き合い方も、新しい次元に入っていかないといけないのかなと思いました。

とも(主催者)
文化共産主義というけど、例えば文化統一主義とか、文化家庭連合とか…

対話と真理

渡邊・大教会長
文化共産主義自体も、結局その成り立ちというのは、彼ら自体がその体制の共産主義の失敗の反省から来てるわけですよね。それをなんとか取り戻そうとしたというよりも共産主義、要するにレーニン、スターリンとかのああいうものが本当の共産主義ではなくて。

あれは大虐殺を起こして共産主義の理想をなそうとしたができなかった、というところから共産主義者も、共産主義とは経済的なものなので、自分たちのことを民主主義だと考えるわけですよ。

本当の意味でのラジカル民主主義とは何かというところから、大衆のそれぞれの抱えているいろいろな闘争というものを統合していきながら、文化的に改革をしていくということこそが、本当の民主主義でありマルクスがなそうとしたことになるとして現れているわけですよね。

だから彼らは、「こっちがダメだったから、こっち行こう」とやってるんじゃなくて、それぞれの中での反省と悔い改めてこうなってるわけですよ。

そう考えると、我々は反省してないところはあると思うので、歴史的にそういうのは重要だと思います。

その観点で言うと、戦いというのを、これは現代思想の話なんですけど、共産主義のその世界に対しての失敗というのがあって、それを反省するためにポスト構造主義とポストモダンという思想が出てきたわけですね。

私は基本的にはマルクスに批判的です。それで、マルクス主義の発展原理は弁証法、戦いですよね。だから、闘争とか革命のやり方ではダメなんだというので、ポストモダンの人たちは、この二項対立をどう避けるかという指導をずっと作ってきてるんですよ。

それが脱構築という考え方で。だから二項対立にならないように、例えば三項対立になったり、それをもっとずらしていくというのをずっと作っていって今に至ってきてる。

でも、もっと大元に戻れば、ソクラテス、プラトンがいて、プラトンの著作は全部対話編ですよね。

ソクラテスが主人公で、プラスそこに誰かが現れて、正義とは何か、社会とは何か、国家とは何かとか、対話していくわけですよ。

プラトンは答えを出してないんですよね。これが本当の真理ですよ、と言ってるんじゃなくて、対話をさせていく中に、この哲学の営みというのがあって、そこに本当の社会の発展があるというのをプラトンは考えた人なので。

そもそもの哲学の起こり、思想の起こりというのが対話なんですよね。これってすごく重要なことで、ここでも金科玉条というのが出てきましたけど、これだけが真実であって、それ以外は違うという考え方していったら、結構戦いになっちゃいますよね。

対話をしていく中で作り上げられていくものに新しい未来を見ていくというのが、これは哲学の話で、宗教とはちょっと違うかもしれないんですけど、でも文化を作ってきた大きな営みとして正反合でぶつかってきたので戦争が起こってきたり、人がたくさん犠牲になってきたっていうのは、思想史を見ると、かなりありますよね。

だからこそ、今、宗教間の対話、その対話というのは、なんとなくぬるいというか、ぼんやりしてるように感じるんですけど、でも対話をすること自体の中に一つの真理性が私はあると思っていて。

だから我々には統一原理という一つの原理、真理と思うものがあるわけですけど、それすらも私たちは更新されていかなきゃいけないものだと考えてるわけですよね。

それは別に単純な対話だけでなるとは思わないんですけれども、向き合い、一緒に作っていくという姿勢、我々だけが善であって、私たちが真理の保護者だという考えを一回横に置いた上で、共に対話していく中で作られていかないと。

特に今のこの現状を見てみた時に、我々教団も反省するところはたくさんありますけれど、そういう感覚、そういう気分を私はすごく強く持っております。

とも
中川晴久牧師も対話をしていく中で「気づき」がある。その気づきは神から与えられたものという話をされてましたね。「気づき」はそれまで自分になかったものなので神から与えられたものだと。だから対話はより神に近づいていく一つのきっかけになると思うんです。

他の宗教者の方々が来て下さると、家庭連合の中だけの対話では出てこない「気づき」があるんでよね。家庭連合の人たちだけだとお互いに似た発想をしてるので似たような話で終わってしまいやすいけど、他の宗教の方が入ってくださることで、すごく幅が出てくるというか、視点も与えられるので、いつもありがたいなと思います。
(続く)

※次回は意見交換の後半をアップします。

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