その先にある物 最終話(小説)
コウタの家からの帰り道、トオルと二人並んで歩く。沈黙が気まずくて、のぞみがそれを誤魔化す様に俯いて歩いていると、トオルが口火を切った。
「さっきの話だけど…。」
「本気?」
「…うん。」
のぞみは頷いた。
「…俺…ついて行ってやれないぞ。」
のぞみは顔を上げてトオルを見た。
いつも自信に溢れているはずのトオルの顔は迷子の子供の様で、のぞみは胸の奥に言いようのない痛みを覚えて、次の言葉が継げなかった。
再び俯いたのぞみの視界の隅でトオルの足が止まる。
のぞみも足を止めて顔を上げた。
トオルと再び視線が絡み合う。
トオルは言った。
「行くな。」
そして手を伸ばしのぞみを抱きしめる。
トオルはのぞみの肩に顔を埋めてもう一度言った。
「のぞみ、行くなよ。」
抱きしめる腕に力がこもる。
トオルの声が震えていたのはきっと寒さの所為だけではないのだろう。
のぞみはそれに頷く事は出来ずにただトオルの胸に顔を埋めて込み上げてくる涙を堪えていた。
「ごめんなさい…。」
一層強く抱きしめられて、のぞみの胸の奥に耐え難い思いが湧き上がる。
のぞみもトオルを強く抱きしめ返した。
二人はいつまでそうしていただろう。
わかっていた様でわかっていなかった。ついていけないとはっきり言葉にされるまで、心のどこかでトオルはついて来てくれるかも知れないと言う期待があったのかも知れない。
トオルが病気のおじさんとおばさんを置いて工場を捨てる事なんて、あり得ないと少し考えればわかる事だ。
ずっと一緒だっから離れるなんて考えた事もなかった。
のぞみは家に帰ると部屋に籠りひとしきり泣いた。
それはトオルとの惜別の涙だった。
春を待つ間のぞみは父と祖母の説得に当たった。恵さんからきちんと許可を取らないといけないと固く約束させられたからだ。
最初駄目だとしか言わなかった父はやがて折れてこう言った。
「お母さんも意思の固い人だったんだ。のぞみもお母さんに似て言い出したら聞かないからなあ。」
仕様がないと言うように父は笑った。
「のぞみはお父さんとお母さんの大切な宝なんだよ。今まで守る事ばかり考えていたけれど、それじゃ駄目だったんだね。」
「ただ覚えておいで。のぞみの家はここだよ。帰りたくなったらいつでも帰っておいで。」
父の優しさにのぞみはまた泣いた。
それからの日々は忙しかった。
父が災い前の地図帳を渡してくれた。
「道路も色々変わってしまっているかも知れないが、役にたつだろう。」
それから物置きから様々なキャンプ用品を引っ張り出してきてくれた。
これはいるこれはいらないと仕分けをしながら、小さい頃河原でキャンプをした事を懐かしく思い出す。
バーベキューのコンロを組み立てる時に使うネジが見当たらないと言って父が物置きを物色し始め、祖母が台所から色々な食料を持ってきた。
「梅干しを持って行きなさい。」
「それから味噌に醤油にお米と…。」
次々と出される食料に
「おばあちゃん。そんなには持って行けないよ。」
とのぞみは笑った。
祖母の愛情が愛しかった。
そして時は瞬く間に過ぎて行き、もうすぐ旅立ちの時が来る。
旅立ちの前にトオルが家にやって来た。
「のぞみ、ちょっと外に出れる?」
「うん。」
のぞみは頷いた。
踏みしめる地面にはオオイヌノフグリが咲いていた。木には新芽が芽吹き始めている。
庭先の柿の木の下で立ち止まり、木を見上げてトオルは言った。
「昔この木に登って柿をとったよな。」
「うん。トオル渋柿なのに齧り付いて吐き出してたね。」
思い出してのぞみは笑った。
「あれは本当渋くて不味かった。なのにのぞみのばあちゃんの手にかかると劇的に美味くなるんだもんなあ。」
「…今年も実がなるかな…。」
トオルはそう呟いた。
「…何処かの街や集落に辿り着いたら、街にいるお父さんの友達にね、メールとかで連絡を入れる約束をしたの。そうすれば連絡が取れるから。実がなったらメールをくれる?」
「約束するよ。」
「のぞみ、手だして。」
言われてのぞみが手を出すとトオルはポケットから何かを取り出してのぞみの手に乗せた。
「栞?」
それはラベンダーを押し花にした栞だった。仄かにラベンダーの香がして、トオルと一緒に見たあのラベンダー畑の思い出が鮮明に甦る。
「トオルが作ったの?」
「まあな。のぞみ本好きだろ。」
「ありがとう。大切にするね。」
視界が霞んでいるのはトオルが柄にもなくのぞみの為に押し花の栞を作ってくれたから。
トオルのことがたまらなく愛おしいから。
今日で泣き虫は返上するから、だからやっぱり今だけは泣かせて欲しい。
トオルはのぞみを抱きしめて言った。
「本当はずっと一緒にいると思ってた。だけどのぞみ昔から決めたら絶対だしな。だから…応援することにしたんだ。」
「新しい世界を見てきてくれ。そしていつか俺に教えてくれ。」
「うん。約束する。」
二人で見つめ合って、トオルの指がのぞみの涙を優しく拭った。
そしてきっと世界で一番長いキスをした。
約束の証は仄かにラベンダーの香りがした。
旅立ちの朝は快晴だった。
恵さんの車は入り切らないほどの荷物で溢れかえっていた。
途中燃料切れにならない様にトオル達工場の人達が携行缶に入ったガソリンを準備してくれていて、最後にそれを積み込んで準備は整った。
そしてのぞみ達は父のくれた地図帳を手に出発した。
「のぞみちゃん。まずはこの街を目指しましょう。」
恵さんが地図帳の一箇所を指して朗らかに言った。
「はい。」
のぞみは元気に返事をする。
道は長い間整備されていないらしく所々でこぼこだ。時々バウンドしたりして乗り心地はとても悪かった。地図帳の通り続いているのかもわからない。
やがて地図には載っていない分かれ道にきた時に、のぞみが不安に思っていると恵さんが元気づける様に言った。
「どっちの道にする?」
「えっ。えっーと。」
選べないのぞみに向かって
「大丈夫。いつだって自分が今選択する物が最善の選択なのよ。」
と笑顔で言った。
「じゃあ、こっち。」
のぞみは右手を指差した。
「OK。」
車は右へと進んで行く。
道はきっと何処かには続いているはずだ。
のぞみ達は進んでいく。
その先にあるものを信じて。