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インテリの品格

─ 宮台教授VS正木教授

宮台真司教授の不倫報道に接した時、「またか」と思ったものです。このかたは、かつて
援助交際に絡んでの話題にも上ったことが思い出されたわけです。社会学の専門家として論陣を張る大学教授の不倫を、世間はおもしろがっているようです。

特に、学識と抽象度のある論理展開、しかも強面で、ドスの効いた声で、ほとんど人を押し倒すような語りで煙に巻くその風采は、一例で言えば長く続いたTBSラジオ「デイキャッチ」や、最近ではAbemaTVでの出演などを通じて、よく知られていることかと思います。

そもそもの報道は、週刊FLASH2024年1月23日号で、WEB では1月8日配信となっています。概略を確認しておきますが「宮台真司氏
女子大生を"ファン食い"44歳差不倫『がん治療』に同行させ3000円ラブホへ」というものです。私が最初に接したのは百田尚樹氏の動画番組でしたが、宮台氏のコメント内容と3000円ホテルをいじっていました。一方、講談師の神田伯山はラジオ番組で「初笑い。日本を明るくするニュース」として、大はしゃぎだったようです。

なぜ、人は失笑するのか

百田尚樹、神田伯山に留まらず、ユーチューバーの格好の餌食になった感がありますが、私も内心どこかで失笑を禁じ得なかった、と振り返っています。不倫という社会学者の法律違反なのか、道義的責任なのか、その辺はどうでもいいのですが、なぜ失笑が生ずるのか、私はそこが気になっています。人は、なぜ失笑するのでしょうか?

雑誌記者の取材に対して、女子学生からの相談に応じたと語っているようで「進路選択について幼少期の家族関係に由来する人間関係についての願望水準低下をどう克服するかの相談です」というコメントが記事になっています。社会学者として学生から、つづめて言うとすれば人間関係にまつわる生き方の相談
を受けたことを、こうも小難しく言えばいうほど、余計に失笑を誘うような気がします。

「ことが教育や言論の自由にかかわる以上、インテリゲンチャの集団が反抗勢力の前面に脚光を浴びて登場するのは当然·····」非の器より

これは中学校の先生と生徒でもあり得る構図であり、要は男女の恋愛トピックに過ぎないことは明らかであり、これを大学教授らしく
レトリックを振り回すおかしさ、のように思われます。もちろん、仕事としての対応という論理構造となっていて、モラリティーはネグレクトしつつ、建前で押しきっているようです。

おそらく氏のことですから、世間が失笑しようがゲスな視線など意に介さないどころか、「くやしかったら持ててみな」ぐらいなのではと想像されます。援助交際や願望水準低下問題という課題を研究するに際して、当事者女性たちと深く関わって調査・取材・相談することが、論点の掘り下げにとってのそもそもの必要性や蓋然性のほどは、預かり知りません。もしそうだとしたら、自身の研究成果としての論文発表の際には、論文の性質にもよるでしょうが調査の方法論を記載するのが通例です。調査対象としての女性について、いつ・どこで・誰と・何を・どうした、のかについて詳細に論述するのでしょうか。研究成果の説得力のためには、まず方法論の妥当性が検証されなければなりません。当事者の深い問題に肉薄するには、男女としての赤裸々な交感や交歓を経ずしては達せられないということがあるのかもしれません。一度、是非今回の研究成果としての著述に触れてみたいものです。

ここにある精神としては、潜入ルポルタージュとしての鎌田慧氏の「自動車絶望工場」や記憶に新しいところで横田増生氏の「ユニクロ潜入一年」などが浮かんできます。しかし、社会学的な問題探索にとって、このような突撃取材精神がどこまで求められることなのでしょうか。戦争の問題は戦場に飛び込むことによって、何か解決策が見つかるとでもいうのでしょうか。私には、2017年に文藝春秋で報じられた、当時の文科省前川喜平氏の
出会い系バーでの女性の貧困調査のことが連想されるぐらいです。

宮台氏が相談内容を具体的に言うほど滑稽に思えてくるのは、誰もそれを真に受けてないことからくる、ということかもしれません。
御本人も当然わかっているわけですから、取材者をひいては世間をバカにしているようにも思えてきます。ゲスな勘繰り、興味を一笑に付しているのは、教授のほうかもしれません。低俗なエンタメをビジネスにする雑誌、下劣な興味を注ぐ民度の低い輩こそ、いい笑いものと言えましょう。

週刊誌に正義はあるか

FLASHは光文社で発行しているようですが、
この会社の方たちは人間の生理的欲望に訴えて読者を獲得し、その雑誌販売によって利益を享受するビジネスモデルなっていることは言わずもがな、のことです。尊いビジネスや
知的な事業だけが望ましいとは思いませんが、こういう雑誌の品性は好感が持てません。ここまでくると、今進行しているビッグ芸人のスキャンダルと週刊文春のトピックが視野に入ってきます。今問われるべきは芸人の功罪の一方で、週刊誌報道のあり方という、きわめて重要なテーマが顕在していると見るべきでしょう。

「広くもない法廷で、原告席と被告席には、ニメートルばかりの間隔しかなかった。特有の咳ばらいをすると、·····」非の器より

昨年、週刊朝日が休刊になりました。朝日新聞も販売部数がジリ貧になっていることはよく知られるところです。インターネットが普及して、その活用がかなり浸透してきており、その影響が社会を、世界を揺さぶりつつあるように思われます。蔡倫が紙を作り、グーテンベルグが印刷技術を発明し、そのことなどが契機となって、人間の生活文化は進展してきました。この意味で21世紀のいま、まったく新しいステージを迎えているのかもしれません。そんな中、編集者の箕輪厚介氏が、週刊文春の報道に質的な変化を見ていて、そこが興味深いところです。芸人問題に関してSNSを煽動しているとの指摘です。社会正義や弱者救済から政治権力をたたくだけでは部数が稼げず、わかりやすい低俗な興味を刺激するようになっているというわけです。

大正12年に始まった株式会社文藝春秋も、販売部数稼ぎに芸人一人を身ぐるみ剥がすことで、生き残りを図ろうとしているかのようです。もしそうなら、社会の公器としてのメディアではなく、パラサイトといえるものなのかもしれません。1974年、故立花隆が文藝春秋で「田中角栄研究」を発表し、角栄の退陣までをもたらしました。これは、立花氏個人の力はあったにしろ、取材チームがあっての分業ですし、当時の文藝春秋という媒体の箔があってのことです。立花氏の力量を過大評価したくないわけではなく、世の中を動かす者の見えざる手が何かということです。田中角栄の評価にしても、大悪人で終りといった単純なものではあり得ず、小室直樹が世間の見方とは真反対に角栄支持にシフトしていることは、人間による社会的装置がいかに偏っているかと思わせます。この世には多面性が渦巻いているようです。

印刷技術による雑誌の機能が社会を動かす時代も過渡期なのかもしれません。一体この世は何が動かしているのでしょう。政治は後追いではないでしょうか。経済合理性はかなり力があるようです。科学技術でしょうか。グローバリズムでしょうか。思想でしょうか。陰謀でしょうか。アメリカ金融資本でしょうか。イーロンマスクでしょうか?

下劣な週刊誌に踊らされるSNSの民が目が覚めるのはいつのことでしょうか。今回の芸人問題で週刊文春は、後から振り返った時に、
大きな岐路に立っていた、といえるようなそういう場面にも見えてきます。もちろん、どうなるかは神のみぞ知るであり、ネット社会おける民の成熟が伴わないことには、この国の盛衰に影響を及ぼすでしょう。

トイレの落書きは消せばよい

消せるかどうかにではなく、「トイレの落書き」と化したところが、宮台氏の手腕かと思います。配偶者への配慮とか、今後の実生活上への影響とかその類いは知りません。それは、はっきり言ってどうでもよいことです。そこに興味はありません。FLASHも落書きレベルの記事を何度も何度も出すわけにいかないでしょう。

何年か前に読んだこのタイトルに、語彙センスを転倒する氏のざらつきがいまだに消えない·····

小室直樹は宮台氏の師の一人と言われます。今でも二人の対談は動画に出てくると思います。あの師小室直樹ありてこの徒という面は
感じられます。もちろん、小室直樹だけではなく、廣松渉などへの師事も自ら語っているところです。氏のパロールは抽象度があり、また知識がないと、とてもついていけませんが、めずらしくわかりやすいことだ、と感じた例があります。正確なインターテクスチュアリティは忘れましたが、若い人向けに、
自分のリスペクトする先達を見つけ、その人のようになりたいと思うことが道を拓く、という意味のことを語っていました。要は、自分の師を見つけよ、持て、という意味かと受け取りました。これは、説得力あることだと感じています。

ある日、私の近所に日蓮宗の教えを貼り出す掲示板があり、そこに書いてある文言を見ていたら、
「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り」(そうようきびにふしてばんりをわたり)
とありました。解説が付いていて、それは
日蓮聖人の「立正安国論」より、として
「蒼蠅(そうよう)とは青バエのこと。驥尾(きび)とは1日に千里を走る駿馬の尾のことです。小さな羽虫でも良馬の尻尾につかまっていれば、考えられないような距離を進むことができます。つまりどんな人でも、進むべき道を示してくれる師匠が立派なら、自ずとその域に近づいて行けるということです。」
と解説しています。私はこれを、宮台氏の語ることと、ピッタリ重なるものと捉えています。そう思うとなかなか深い味わいが感じられてきたものです。

さて、宮台氏のスタンスがFLASHなどの記事を見事に矮小化、卑小化に成功しているように感じられます。私も、最初は失笑したのですが、その因ってきたしているところが、極めて俗っぽい感情だと気づいてみると、急に、宮台氏が例えば進撃の巨人のように、モンスターのように、大きくなったかのようです。そもそもの記事を書いたFLASHだけではなく、百田尚樹氏の嘲笑、神田伯山の揶揄なども、どんどんトイレの落書きと化してくるかのようです。

しかし、そう思ってみても私の中にざらつくものが残ります。宮台真司教授の尊大なスタンスに、なにかザラザラしたものが消えないのです。

正木典膳をご存知ですか?

実は、私は今「非の器」を読んでいます。久しぶりに小説らしい小説に接している実感があります。もう少し言うとすれば、文学に触れているという感覚です。およそ50年前の小説ですし、作者の高橋和巳も若くして亡くなりましたので、今の若い世代にはピンとこないかもしれません。三島由紀夫の6年後輩ですが、大雑羽に言って同世代ぐらいの作家と概括してもいいかもしれません。40歳での訃報に接して驚いた昔を思いだします。

「·····そのとき、私は、通訳のために、彼女の語学力を必要としているのではないことを悟った。彼女を必要としているのは、異国の大学教授やその妻ではなかった。·····」非の器より

冒頭からハイテンションな文体が立ち上がり、圧倒してきます。この導入の1ページで、読者に強烈な印象を焼きつけてきます。
どういう風に説明するかですが、漢籍に親炙した作家ならではの語彙力と、「理」が先行する主人公の論理が最後まで突っ走っていく感じとでも言いましょうか。わかりやすく言うとすれば、中島敦の「山月記」というイメージなら、ある程度ニュアンスは届くかもしれません。正木典膳とは、その作中の主人公のことです。法曹界のトップレベルの立場であり、大学教授という設定です。ネタバレの点では、小説の文庫本裏表紙に書いてある程度は差し支えないと判断しますが、法律学者が女性関係で転落していく話です。

では、何故いま高橋和巳かということですが、およそ50年前に書店で立ち読みし、張りつめた導入部は、ずっと私に焼きついていました。しかし、当時読んではいませんでした。最近書店で見かけ、執拗に読みたい衝動に駆られたというところです。

まず「非の器」のタイトルが燦然と凍りついています。「一片の新聞記事から、私の動揺がはじまったことは残念ながら事実である。·····」この有名な書き出しに触れて、私は50年前に惹かれたその心情に一気に遡っていました。今回読みきっての印象はひとえに「葛藤」ありきです。500ページに及ぶこの小説は、葛藤の連続です。終盤に至って「絶え間ない葛藤、闘争、侮辱、反感、それら悪徳の介在せぬ人間関係を、この穢れた地上に私は想定することができなかった。」という一文は、正に正木典膳の生き方を象徴しているように迫ってきます。主人公は3人の女性と関わって苦闘するのですが、そのコンフリクトを生きる様が、一途であり凍りつくような澄明さが、私には感じられます。病弱の妻との関わりは無機的で、家政婦ともいわば機械的なものですが、栗谷清子に寄せる心情は驚くほど瑞々しさにあふれています。おそらく、主人公からこのような視線を向けられる女性とは、女性冥利に尽きるのではないか、と思わせるものがあります。50代の主人公正木典膳を、極めて若々しい心情が、栗谷清子を得て素直にまっすぐ発露するのです。ここをどう読むかは人それぞれですが、少なくとも宮台教授が「進路選択について幼少期の家族関係に由来する人間関係についての願望水準低下をどう克服するかの相談」と高飛車に説明する心性とは真反対のものを感じます。また、氏に葛藤はないでしょう、おそらく。私は、宮台教授と大学法学部教授正木典膳に、コントラストをもって見てしまうのです。
(そうは見ない認識もあることでしょう。)

ほぼ一年前の春、この「今月の聖語」に接した瞬間、私はニヤけていました。論旨とは別に、驥尾に貼りつく蒼蠅はさぞ臭かろうと思ったのです

知の界隈では、あとから「ポストモダン」が出てきたように、歴史上は過去の構築に対して相対化が行なわれるのが常ですが、過去の文学作品から現代の知識人を照射しようとしたのが、この拙文です。一介の素人が宮台教授に何をかいわんや、ではあるものの、宮台教授のスタンスに何かざらつくものがついてまわり、その結果辿りついた一つのクリティークということです。しかし、時代の気分に支配されながら知的営為の一方で、若者のように女性に魅せられる正木典膳の懊悩に、タトゥーの色合いは感じられず、インテリの品格があるとすれば、高橋和巳の小説中にしか存在しないものなのかもしれません。主人公の年齢設定に関わらず読後は清心です。

「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り」こういう言葉は、若くして出合っておきたかったという思いが禁じ得ません。ある意味カリスマ的宮台教授を驥尾として蒼蠅となる若い人が多いかと思います。宮台氏もまた、廣松渉なのか
小室直樹なのかを驥尾として附着する蒼蠅でもあるのでしょうか。★


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