縁が切れたこととこれから


最近友人と喧嘩した。私が悪い部分もあるし、友人が悪い部分もある(と考えている)。

何より残念だったのは、対話の拒否。
「良い世の中だなぁ〜」と感心したのは、長い付き合いの人でも、遠距離にあればブロックひとつで関係が切れてしまうこと。

私たちってこんなことで簡単に切れる縁だったのかなという落胆。いやそれぐらいになるまで私のことがずっと苦手だったのか⁉︎という驚き。
自分を客観視できてたつもりが、配慮が足りなかったようで情けない。

この話にも私的に"思うこと"はいくつもあって。でも時は戻らないし、相手が対話に応じるつもりもないようなので伝えられず無念でございます。

今回、こんな些細なことで他人を巻き込みコトが大きくなっていった。戦争ってこうやって始まるのかなと実感してみたり。


人との関わりで大事なのは知ろうとすることなんだなと感じた。
私は会話は大好きだし、いろんな人の違う意見を聞くのも好き。ただ、真面目がゆえに人に対して許容できない部分もある。

例えば、遅刻とかドタキャンとかはかなり苦手。人に対して誠実でない気がしてならない。予定が合わなそうなら代替案を用意するし、自分が絶対厳しいならそもそもそんな時間に集合を設定しない。私がこうだからあなたもやってよ!というよりは、「約束守るのは当然では?」と思っている。

しかしなぜだかこれを平気でできちゃう子もいるのだ。最初はすごく残念だったし、合わないかもな〜って思っていたけれど、あまりにも常習犯だから見守ることにした。そこで気づいた。私見守れるじゃん!って。

でも、これで寛容になれたわけでは決してない。されると悲しいが勝つんだ。「どうして?私との予定はそんなに楽しみではなかった?どうでもよかった?」ってぐるぐる考えてしまう。


以前、友人と経験において、「誰とする派」か「何をする派」か議論になったことがあった。
私は断然「何をする派」であった。

どうしてこう考えるようになったのだろう?と振り返ってみた。
やはり、上記のような経験から私は「誰とする」ということの楽しさに期待しなくなったのだと思う。相手が楽しめなかったら嫌だし、自分が嫌な思いもしたくない。だったら、自分がやりたくて楽しそうなことをしようと。それに一緒にやろうとしてくれる子でいいじゃないかと。
なんやかんやで「誰とする」も大事になるが、「何をするか」のほうが余程大事なのである。(いや、なってしまったのである)

人に期待しないという冷たい言葉があるけど、私にはそれが必要なようだ。みんな自分で手一杯。相手のことまで気が回らないかも。予定通り会えたらラッキー、会えなくても仕方ない。そうだ、そういう子だったわって気持ちを持つ。
期待しなくなったら世界は変わるだろうか。自分が冷たくなっていくような感覚がするが、仕方ない。必要なモノは手にしておいたほうがいいよね。

でもこうやって自分を知ろうとするのって大事よね。根源がだんだんと見えてくる感じ。今回は切なくなったけど。

これを他者に対してもやっていかないとね。どうしてこうなるんだろう?相手は何を考えているのだろう?って。意識していかないとね。

自分がこう思ったから仕方ないとばかりしていたら、いつか自分だけになってしまう気がする。対話って本当に大事だね。

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