
世界はむごたらしく、そして美しい。ドストエフスキー「大審問官」完結篇
コロナ期に『カラマーゾフの兄弟』や『渋江抽斎』を読みかえした話をしたが、もうひとつ、私にとって大きかったのは、アインシュタインの「相対性理論」を読んだことである。
私はごりごりの文系なので、物理学なんて本当に何も知らず、まったく読んだこともなかったのだが、「相対性理論」はずいぶん前に買っておいてあった。
私の読むもので「相対性理論」に本格的に言及したものはなかったのだが、それでもずっと気になっていた。
時間はたっぷりあるし、いい機会なので、取り組んでみたのである。
まずアインシュタインが一般向けに書いたものを読み、それから「特殊相対性理論」「一般相対性理論」と少しづつ、すすんでいった。同時に、ユークリッド以来の、幾何学・物理学の歴史についても、必要にかられていろいろ読んでみた。
感想は、なんでもっと早く読まなかったんだろう、というに尽きる。とともに、世の哲学者や批評家は、いまだにマルクスやハイデガーをとりあげるのに、どうして相対性理論を無視しているのか、不思議の感にとらえられた。
そこんとこどうなってるの? マルクス・ガブリエル君。
なんて書くと、よほど私が理解できているようであるが、リーマンの高等数学なんてかけらも解さない私には、おびただしい数式の複雑にいささか閉口する。
だが、なぜかアインシュタインの指し示す世界はイメージできたのである。(もっともアインシュタイン自身も、まずイメージありきであって、数学による証明は後づけだ)
しかもその世界観は、私がこれまでぼんやり考えてきたものと響きあい、それどころか、補強し理論化してくれるようなものにおもわれた。
「相対性理論」という名前からして、相対主義なのかといえば、さにあらず。二つの実在の関係性は、たがいにたがいを規定し、絶対的な意味を持つ。
晩年のアインシュタインは、ひたすら「不確定性理論」を否定すべく研究に没頭していた。かれ、いはく。
――神がこんないい加減な仕組みの世界を創るはずがない。
かりにドストエフスキーが相対性理論に接したならば、おそらく私などおよびもつかぬほど共感したのではないかと、私は勝手な想像をめぐらせる。
かれの小説のポリフォニーには、私にそう思わせるものがある。
羊飼いと悪魔
イワン・カラマーゾフの「ユークリッド的知性」は、法体系や道徳といった現世の良識を、人間のこしらえた擬制であって、真理ではないと見抜いている。
その論理を、「キリストのからだ」であり「精霊の神殿」であるとみずから位置づけるカトリック教会のありかたに適用し、その偽善を摘出しようとすることが、「大審問官」におけるイワンの方法論である。
のみならず、それをかれらの信条であるイエスの愛の思想を軸に遂行する。まさに「脱構築」である。
「天上のパン」と「地上のパン」が本質的にちがうように、天上の教会と地上の教会はけっして連続的なものではない。それどころか、地上の教会のありかたは、イエスの愛の思想を否定し、それに叛逆するものではないかと、イワンは厳しく批判している。
大審問官は告白する。
わしらがいっしょにいるのはおまえではなく、彼となのだ。これがわしらの秘密だ! わしらはもうずっと前からおまえとではなく、彼といっしょにいるのだ。もう八世紀にもなるな。ちょうど八世紀前、おまえが憤然として拒んだものを彼がこの地上の全天国を指しておまえにすすめたあの最後の贈り物を、わしらは彼の手から受け取ったのだ。わしらは彼の手からローマとカイザルの剣を受け取り、わしらだけが地上の王者、唯一の王者だと宣言した。
「彼」とは、むろん悪魔のことだ。イエスが拒んだ三つの誘惑を受け入れ なかんずく三つ目の「贈り物」をすすんで手にしたことにより、地上の権力を掌握したと、大審問官はいうのである。
そしてそれは、信徒という集団を率い、教会という組織を守るための必要不可欠の避けられない選択だったと、かれは「九十九匹」の論理において臆面もなく自己正当化する。
おまえは、おまえの選ばれた人びとを鼻にかけているが、おまえにはその選ばれた人しかいない。だがわしらはすべての者に安らぎを与えるのだ。さらにただそれだけのものではない。これら選ばれた人びとや選ばれた人になりうる強者の多くは、ついにおまえの出現に待ちくたびれ、その精神力や情熱をほかの分野に向けてしまったし、これからも向けて行くことだろう。そして結局は、おまえにそむいて自由の旗を掲げることになるのだ。
羊飼いは、犬をけしかけて、羊の群れを枠に追いこむ。それは何より羊それ自身のためなのだと、大審問官は弁明しているのである。
羊たちは、自分の意志で野山を駆け巡ることを断念し、そのかわりに、「地上のパン」すなわち「安心安全」をあたえられる。
そして羊飼いたる大審問官は、今日もまた、厳格に組織をたばね、異端者をさがしだし、焼き尽くし、異教徒を皆殺しにするのだ。
のみならず自由を否定したはずが、ふたたび「自由の旗を掲げることになる」という。
つまりここには、二つの「自由」が表わされている。
掲げられた「自由の旗」とは、自己主張としての「自由」である。ドストエフスキーは、『悪霊』において、シガリョフに、「無限の自由から出立して、無限の圧制にいたる」といわせている。
個人の恣意に立脚した「自由」の跳梁は、必然的に、他者の自由の否定へと向かうほかない。一人の「自由」は、それ以外の人びとの「不自由」を結果するのだ。
羊飼いはみずからの羊を守るために囲いを施し、外敵を排除する。それは羊飼いの「自由」である。しかしそれは、羊飼い以外の自由を制限する自由にほかなからない。かれの意志の下、外敵のみならず羊の自由も否定されるのである。
これはなにもカトリック教会に限った話ではない。程度の差はあれ、これが現実の社会体制というものの真のすがたなのである。多かれ少なかれ、われわれもそのようにして、日々、生きているのだ。
自由の頽落
イワンは、「すべては許されている」という言葉をたびたび口にする。それはこの「カラマーゾフの兄弟」の小説世界の謎を解くキーワードである。
「すべては許されている」とは、人間は根源的に「自由」であるということを意味している。
イワンが大審問官に語らせているように、理想を掲げるふりをして、善を強制し、不正を糾弾しながら、その実、理想をひそかに裏切ることで、社会体制を維持し、法と良識と道徳の枠に人びとを追いこんでいるのが、社会の現実のすがたである。
強者がその気になれば、合法的に、無垢な児童でさえ虐殺しうる。ほかは推して知るべし。当人はなんら良心の呵責など感じはしない。世間は見て見ぬふりをし、天罰が下るわけでもない。悲惨な末路をたどるとすればそれは、かれが強者の位置から転落した時だけである。
しかしそれならば、法と良識と道徳の枠は、とうてい「真理」などではなく、見せかけのものにすぎぬ。そんな世間のまやかしを剥ぎとってしまえば、本当は、「すべては許されている」のではないか。
イワンのいう「カラマーゾフ的生き方」とは、そうした虚飾の倫理に惑わされることなく、みずからの衝動に正直に行動することである。それはいかなる方向性ももたぬ盲目の意志だ。
その場合、罪とは、失敗、転落、弱者の言い訳の別名にすぎない。
ところがイワンは、「カラマーゾフ」的な父や兄を横目で見ながら、しかも自分にも同じ血が流れていることを必要以上に意識しながら、かれらとは対極にあるアリョーシャの生き方に、一縷の希望をかけている。
「すべては許されている」はずなのに、イワンはそこに人生の幸福も、生の充実も見いだせずにいる。むしろ底知れぬ絶望感ゆえに、自由の行使どころか、いかなる積極的行為にも出てゆくことができないのだ。
イワン・カラマーゾフは、ロレンスのようにはこの世界を肯定できなかった。
かれはあくまで、目に見える世界の調和をのぞんでいる。そのためにもみずからを位置づけ、生きる方向性を定めてくれる絶対的基準を心の底から切望しているのである。
だがしかし、かれの「ユークリッド的知性」は、そのようなものは現実には存在しない幻想であるという解答をかれに衝きつけている。イワンの絶望の根はそこにある。かれにとってこの世界は、生きる甲斐のあるものではないと映じていた。
それゆえにイワンは、死という最終的な結末に安息を見いだすほかないのである。それは内省的な合理主義者の不可避な末路である。
黙示録的自由
ロレンスのように、イワン・カラマーゾフの世界理解を、ドストエフスキーその人のものだとみなすのは、あまりに単調な思考である。
ドストエフスキーが「大審問官」を、わざわざイワンとアリョーシャの対話の中に置いているのは、「大審問官」を挟んでイワンとアリョーシャを対置し、かれがさらにその関係性の外に位置しているということを意味している。
イワンの世界認識は、たしかに作者のものではある。が、それはせいぜい一断片にすぎないのだ。
ドストエフスキーは、死に安息をもとめるイワンを描きながらも、けっしてその考えを肯定しているわけではない。そのためにこそ、アリョーシャの存在が対置されているのだ。
どれほど悲惨で非人間的な事件を描こうとも、ドストエフスキーはあくまで生きることを、人間の過酷な運命を、正義と善にたいする飽くことなき希望を、どこまでも肯定する。死への勇気ではなく、生きる勇気に価値を置く。
人間にとって、理解とは支配である。われわれは認識し理解することで、対象を克服し超越する。
ドストエフスキーは、イワンの知性をそうした近代主義的志向性をもったものとして規定している。したがってかれがもとめているのは、認識し理解しうる「世界の調和」であるといえる。
それは、すべてのものを明るみに引きだし、白日の下にさらすことを意味している。
しかしながらわれわれは、光だけの存在ではない。白昼ばかりで夜がなければ、われわれは生きてゆくことはできない。睡眠は深いところで死に接続している。人間の全存在の半分は闇に没しているのである。
他方、アリョーシャの立つ位置は、「不合理ゆえに我信ず」とする信仰の世界である。認識と理解はもとから拒否されている。
長老ゾシマの死に際して、かれを敬愛するアリョーシャや僧院の人びとは、なにか特別な奇蹟の徴しがあらわれるのではないかと期待する。ところが期待は裏切られて、ゾシマはただふつうに死ぬ。しかも棺から腐臭がただよいはじめ、僧院の人びとは動揺する。
ドストエフスキーは、かれもまた信仰者でありながら、そのように奇蹟をもとめる不合理な信仰を冷酷に否定的に描写している。
かれは、それがたとえイエス・キリストであろうとも、この世界に現れれば、この世界の法則に従属すると考えている。じじつ、イエスはそのようにして十字架に架けられて死んでいったのではなかったか。
人間はたんに、光と知性の存在ではない、人はまた、不合理な衝動のうちに生きている。その均衡の上に、人間の全存在は成立している。そこに人間的自由の深源がある。
ドストエフスキーはイワンに、「すべては許されている」といわせ、しかもそれをアリョーシャの存在と対照することで、イワンよりもずっと深い地層から自由を掘り出してくる。おそらくそれは、人間の存在それ自体を規定する根源的な「自由」である。
「ユークリッド的知性」は世界を理解し神に達せんとして、バベルの塔を築く。それは神への挑戦であり、反逆である。「すべては許されている」のに、そこに人間は畏れと不安を抱く。
これを信仰の名において批判することは容易い。しかしそれは、まちがいなく、人間の内奥に流れる創造と建設の奔流なのだ。それを否定することは、人間存在の、ひいては生そのものの否定へと道を通じている。
しかしながら、畏れと不安は実在する。それは絶対者と相対する個人にきざす大いなる翳である。ここにおいて個人は、自己否定とエゴイズムの抑制の契機を得る。
肯定も否定も――創造も破壊も、人間の深層にある自由にもとづいている。
もはやお解りであろう。ドストエフスキーは人間を、この世界全体を、二つに引き裂かれた存在として表現しているのである。どちらが正しいわけでも、間違っているわけでもない。二つの自己の対立抗争と、その均衡として、人間を把握し、世界を理解している。
善と悪は、ともに人間の根源的自由から生じる双生児である。そこに人間の栄光と悲惨とのすべてが由来する。そしてそれは人間に過酷な運命をもたらすのである。
将来がどうなるか解ってなくちゃいけないのか。そんなのどこが面白い?
ノーベル文学賞をうけたハン・ガンさんは、「世界はどうしてこんなに暴力的で苦しいのか、同時に、どうしてこんなに美しいのか」と、講演で語った。
それは、こういいかえることもできる。
――人間はどうしてこんなに暴力的で苦しいのか、にもかかわらずどうしてこんなに美しいのか。
ドストエフスキーは一貫して犯罪に異常なほどの関心をもちつつ、ソーニャやムイシュキンのような美しい魂を探究した。
従来、「大審問官」にはさまざまな解釈がなされてきた。私がとりあげたロレンスの解釈は良質な一典型である。
その対極にあるものとして、たとえばベルジャーエフの解釈がある。かれは劇詩「大審問官」を、反キリスト者・イワンによる「キリスト賛歌」という逆説を提示している。
この方が私の見方に断然近い。(註)
劇中、イエスは何も語らない。ただ大審問官のいいぶんを聞いている。かえって、その沈黙が重力のような深遠な力をはなっている。大審問官はしだいに昂揚してくる。だが長広舌のあと、最後の、イエスのキスによって、それまでの憤怒、恨み、憎悪、自己弁解、偽悪、傲岸、自己憐憫、それらすべてはあたかたなく一瞬にしてけし飛んでしまう。
すべては予見され、予定されており、みずからの行為がイエスを震撼し戸惑わせる何ものも持たぬことを、大審問官は悟るのである。すなわち、「すべては許されている」のだ。
イエスの存在は、イワンの思惑の殻を内側から破って突出し、劇詩「大審問官」の外部に流れだしてしまっているのである。
それは作者の意図したところである。
ドストエフスキーは、「神のものは神へ、カイザルのものはカイザルへ」といい、「一匹と九十九匹」を対立させ、奇蹟を拒否し、「貧しき者は幸いなり」と叫んだイエスの二元論をみずからに課すことで、この忌まわしい世界を受け入れようとしている。『カラマーゾフの兄弟』とはそうした小説である。
かれは「ユークリッド的知性」のはじきだす「調和」など一顧だにする価値もないと考えていたはずだ。真の「調和」は、人間の知性を超えた手のとどかない神の領域にある。
いいかえれば、ドストエフスキーは、唯一者イエス・キリストを鏡として、人間を理解し、世界と対峙するのである。イエス・キリストの存在を通して、ものを見、判断するのだ。
それは「キリストに倣いて」のように、イエスを人間的規範とすることではない。「すべては許されている。さて汝は何をすべきか」というイエスの問いに正面から向き合うことである。
ドストエフスキーの小説にはすべて、影の登場人物としてのイエスのすがたが全体を通して存在しているのである。人間のむごたらしさ、美しさは、それによって手もなく相対化されてしまう。
この世に「真理」などない。そしてこの世に真理などないという事実こそが、「真理」の逆説的存在証明なのだ。
それはロシア正教ともカトリシズムともおもむきを異にした、かれ独自のパーソナルな信仰であり、また世界観であった。
「ただ一人、イエス・キリストだけはそれができる」というアリョーシャのイワンにたいする返答は、そうしたドストエフスキーの世界観に反響し、小説世界に鳴りひびいている。
神の沈黙は神の愛である。おそらくドストエフスキーはそう考えていた。
イワンのもとめる「調和」が現実に約束されるとしたら、人間は人生を生きる意味を見失う。はじめからハッピーエンドが決定されているとしたら、誰が真剣に人生を生きようとするだろうか。
人は真の調和を心からもとめていながら、それを実際にあたえられるならば戸惑わずにはいられない。人間とは、そういう矛盾にみちた存在なのだ。
よしんば真理はキリストの外にあるということを、数学的に証明してくれる人があろうとも、自分は真理とともにとどまるより、むしろキリストのもとにとどまることを潔しとする。
これはドストエフスキーが『悪霊』の中でスタブローギンにいわしめているせりふである。
だがそれは、じつは、さかのぼること十七年前、死刑寸前までいった流刑から釈放された直後に書いた手紙に見いだせる、ドストエフスキー自身の信仰告白の言葉だ。
「カラマーゾフの兄弟」は、逆説的な世界賛美、終末論的な自由の擁護が託された小説である。そこには「解決」など存在しない。人間は根源的自由によって未来にひらかれており、「すべては許されている」のである。
世界はむごたらしくも美しい。十字架のキリストはその象徴であると、ドストエフスキーは考えていたようだ。
(註) ベルジャーエフもロレンスに劣らず、自己肯定感が強い。なんでも自分のフィールドに引きこんで処理しようとする傾向がある。かれは「大審問官」の思想を、来るべき共産主義社会への本質的批判であるといっている。
ユーモアのかけらも無いところも、ロレンスとすごく似ている。
とはいえ、気弱で個性のうすい私からすると、正直、かれらの強烈なメンタリティがうらやましい。
いやしくも思想家たらんとする者には、そのくらいの強い押し出しが必要なのだろう。
だがしかし、見方をかえれば、かれが天才的であればあるほど、その思想はそれだけ強い劇薬であり、使いかたを誤れば死にいたるような、それ相当の副作用をともなうということでもある。
ドストエフスキーもそんな思想家の一人であるとおもう。
今回いろいろと読んだドストエフスキー論で、結論として、かれはどこに希望を見いだしていたのか、というような言述を多く見かけた。たとえば、母なるロシアの大地に希望を託していた、とか。
おもうにドストエフスキーは、かれらが期待する取って着けたような「希望」などもってはいなかった。それはかれの作品をよく読めば誰しも解ることである。
いいなと思ったら応援しよう!
