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時間と実在のエピローグ 問題の書・小林秀雄「感想」の真相③
じつは私、親父バンドをやっている。正確にいえば、やらされている。同窓会の先輩にいわれて、手伝っているのだ。ベースを希望したが、最初はドラマーが見つからないので、苦手なドラムをやっていた。いまはリードギターにコンバートされている。
「やらされている」というのは、かれらは十個ちかく上なので、私の意向はまったく採用されないという、残念な事態を意味している。なじみのない曲のカバーばかりを命じられる。それではつまらないので、「ロックンロール親父」という曲をつくったところ、それはバンドテーマとして、演ってくれている。
今年に入って、課題曲として、南佳孝「モンローウォーク」をあたえられた。以前は楽譜とCDを用意してくれたが、最近は、メールで曲名を伝えられる。自分でyoutubeなどで原曲をチェックし、コピーしなければならない。はなはだ面倒だ。
「モンローウォーク」は、坂本龍一のアレンジで、ギターは鈴木茂だった。リズムはサンバだが、たぶん「フュージョン」全盛のころの録音なのだろう、やたら細かなキメフレーズが多い。
対バンの親父バンドもたくさん見てきたし、みんな上手でいつも感心させられるのだが、こんなシビアな16ビートのテンポの速いカッティングをやっているギタリストは、さすがに見たことがない。
学生のころファンクバンドをやっていたので、カッティングはまあまあできるのだが、ひさしぶりでもあり、かなりきつい。
いくつもの単音のクロマチックなキメをはさんでおり、ナイル・ロジャースのようなクルーブ感というより、ラリー・カールトンやリー・リトナーの技術の精度がもとめられる。
鈴木茂のオリジナルもさほどうまくはない。
勘弁してくだせえ、とメールしたら、「お前はやれば出来る子だ」という、にやけた塾講師のような返信がきた。
文句をいっているのは、たんに演奏がむつかしいからではない、「ルビーの指環」ならまだわかるが、なぜ「いま」どき「モンローウォーク」なのか、その選曲の動機とプロセスが、私にはまったく不可解なのである。観客にアピールするとも思えない。
十年の差というのは、世代の断絶というほどではないが、そうはいっても、ポップミュージックを時間定数とすると、ずいぶんな落差として状態の収縮が観測される。
音楽におけるかれらの「いま」と、私の「いま」とは、まったく異なる瞬間といって差し支えない。ちなみに、「差し支えない」という言葉をつかったのは、小林秀雄の影響である。
そういう私にしても、ミセスグリーンアップルの絶大なる人気が、好き嫌いとはべつに、いささか腑に墜ちないのである。いにしえの「プログレ」バンドのように聞こえるのだ。
「いま」とは何か
私の理解した相対性理論を信じるならば、「いま」とは、私に近接した空間だけにある限られた時間である。私の視点から遠ざかるほど、現在は拡大される。アンドロメダにおける私の「いま」は何万年にもなる。ということはつまり、そこに私の「いま」は存在しない。
私のいいかたでいえば、時間は私のパースペクティヴの中だけに存在する。現実的にいって、私の「いま」は、せいぜい太陽系の中だけで通用する観念である。もっとはっきりいえば、私が見晴らせる範囲にしかない。
私が時間を考えるとき、いつも脳裡にうかぶのは、砂時計である。
砂時計は、二つの円錐がさかさまに連結され、繋ぎ目の、きゅっとすぼまったところを砂が通過することによって、その量の増減で時が測られる。
私の頭の中では、上の円錐が「過去」であり、下の円錐が「未来」 中間の砂が通るところが「現在」である。
要するにこれは、時間のパースペクティヴのモデルとして私にイメージされているものだ。
私の意識はつねに、中心の連結部――すなわち「現在」に固定されている。
さらに、私の中では、時間のパースペクティヴは、空間のパースペクティヴに重なっている。
中心の狭まったところが「いま」だといったが、空間的には、それは「ここ」といわれる。つまり、「ここ」と「いま」は同じものの二つの相貌である。
私はいつも、「いま」「ここ」に位置づけられている。そしてそれは、私だけに課せられた条件である。あなたの「いま」「ここ」は、私からみれば、「いま」でも「ここ」でもない。
こうしたイメージを私はあらかじめ持っていた。それゆえ、はじめてアインシュタインの特殊相対性理論に接した時、強い親和性を感じた。
「時間の矢」は通常、熱力学第二法則と結びつけられて、その非可逆性・非対称性を補強されているようだが、それがミクロの世界になると、有効ではなくなる。量子力学の基礎的な方程式において時間は、対称のものとして記述されており、それで「差し支えない」からだ。
しかしながら私は、時間を非対称な方向性をもったベクトルを有するものだとみなしている。それは、「実在」というものに関する私の定義が、物理学とは根本的に異なるからである。
量子ゼノン効果
小林秀雄は、不確定性理論が「衝突した」のは「ゼノンのパラドックスだつたと言つて差し支えない」と書いている。
不確定性理論は、素粒子のふるまいを離散的に記述するものであり、持続の連続性とは背馳する。「衝突」という言葉をどのようにとればよいのか曖昧であるが、どちらにしても、この点においてはベルクソンの持続と量子力学とは相いれない。
したがって、何が「差し支えない」のか、私には意味不明である。プランク定数がある以上、無限の分割はできないという意味なのかもしれないが、そうであるにしても、不確定理論はベルクソン哲学のゼノン批判と軌を一にするものではない。
で、じつは「量子ゼノン効果」「量子ゼノンパラドクス」というものもある。
小林秀雄も知っていたのかと、一瞬、疑ったが、それが発表されたのは「感想」連載よりずっと後のことで、かれとは関係ない。
「量子ゼノン効果」とは、かんたんにいうと、観測を頻繁にくりかえすことで量子の遷移がとどこおるという効果である。「シュレディンガーの猫」でいえば、飼い主がたびたび箱の中の猫の状態を確認することで、猫が死ぬ確率は減る。実験的に証明されているようだ。
そこで、さらに一歩すすんで、一定の時間内に、無限に短い測定間隔で無限回の測定をすると、量子が状態の変化をきたすことなく元の状態に凍結されるのではないかと、考える人があらわれた。これを「量子ゼノンパラドクス」という。これは詭弁である。
で、その時、人間の意識が直接作用して、量子ゼノン効果が生じるとしたら、それは「非局所相関」といわれるプロセスを意味する。実際、そういうことを考えた人もいたのである。
「非局所相関」とは、ある事象が空間的に離れた事象に対して瞬間的に影響をあたえることをいう。テレパシーのようなものである。
かりにそういうものがあるとすれば、マクロなわれわれの意識とミクロな量子の世界は容易くつながるのだが、常識的に考えて、そんな魔法の力があるわけがない。実体も媒質もなく瞬時に伝わる力。相対性理論をはじめ、あらゆる力学法則にも背反する。
たぶん、小林秀雄も同じように考えたであろう。
かれが粗雑な人物であったならば、観測問題において、非局所相関をつかって、さっさと「マクロコスム」と「ミクロコスム」あるいは「実用世界」と「もの自体」を連結させたであろうが、そこはさすがに小林秀雄、そんな粗忽なしくじりをやらかすほど、眼は曇っちゃいない。
したがって「見当はついた」というのはもっと深いレベルの話なのだろうが、それこそ「無学」の私には、小林秀雄の「見当」のありかが、かいもく見当がつかないのである。
「実在」について
結局、素粒子の研究という超微細なレベルでは、観測という行為自体が対象に影響するということらしい。実験結果の観測とは、たとえば光子なり電子なりを対象の素粒子にぶつけることであり、それがマクロな装置の目盛にあらわれるのだが、まさにそのために、得られるデータはその観測の過程や条件をも反映してしまうのだ。
それゆえに、ボーアは、「何が実在するか」は、観測の状況全体に依存するといっている。たとえば、光が粒であり波であるのは、観測者の態度しだいで二様の性格をあらわすというのである。
とはいっても、粒と波とでは、ぜんぜん違うものだ。粒は固体性をもつが、波は振幅であり、それ自体で存在しうるものではない。パチンコ玉と風は同じものだと、いっているのも同然なのだ。
結局、「観測の状況全体に依存する」のが「実在」であるならば、観測以前の状態は、未決定の「非実在」だということをいっていることになる。
だからアインシュタインは、「私が見ていない時、月は存在しないというのか」と、反駁したのである。
それに対する、量子力学の答えは、
――しかり、月は存在しない。
物理学的には、それは「実在」とはみなさない。そこに量子論における「実在」というものの定義が端的に示されている。
そんな馬鹿なと思われるだろうが、じつは私も、ある意味で同感なのである。
ただし、虚実が入れ代る。
「観測の状況全体に依存する」のが「実在」であるから、観測以前の状態は「非実在」だというかれらに対して、私は、「観測の状況全体に依存する」のが「実在」であるから、観測以前の状態も「実在」だとみなす。
それは量子論などと関係なく、もっぱら文学的なものだ。
月は私が見ていないときには存在しないが、私は生きる上で、阿倍仲麻呂のように、月のあることを確信し、それを考慮に入れて、日々生活している。見上げた夜空にうかぶ月を見て、三笠の山にも月がでているだろうと考える。
それが私にとっての「実在」の意味である。
なにも物質にかぎらない、「国家」も「社会」も「日本語」も「コンプライアンス」も、「物理学」も「実在」である。それらはすべて、私のパースペクティブにすがたを現し、私を限定し、私の人生に影響を及ぼす「モノ」である。たとえ観念的な構築物であっても、それらはやはり「実在」である。
だから、時間も「実在」する。非対称な方向性をもつものとして。
考えてもみよ、先日おこなわれたフジテレビの二回の記者会見を、前後入れ替えても、事態は変わらないと誰がいえるだろうか。先にオープンな謝罪会見をやって、そののちに定例の記者会見、それだとこれほどまでにフジテレビが追いこまれることもなかったろう。
週刊文春は訂正記事を出したらしいが、それが記者会見より先に出ていれば、状況はまた、ぜんぜん違っていただろう。
このように、時系列における事案の順序は、われわれの人生にはかりしれない影響をあたえる。時間の前後関係はけっして無視できない。人間的時間は方向性をもっており、前後の対称性はない。
ただ、時間は絶対的な基準としてこの宇宙全体を同期しうるものではないというだけのことだ。私の「いま」とあなたの「いま」は、明確に区別される。「私の時間」と「あなたの時間」は同じではない。
私の砂時計とあなたのそれは、ぴったり重なることはないのである。
私にいわせれば、量子論における時間の対称性もまた、かれらの方法論という「観測の状況全体に依存」しているのだ。見ていない時の月が「非実在」であるというのも、量子力学という、かれらの文脈の場だけで成立する「真理」である。
量子論の方法論から導かれる帰結は唯一無二の真実などではなく、われわれの生という、複雑なタペストリーを織り成す糸のひとつにすぎない。
量子論の「真理」はもちろん実在するが、私たちが見ていない時にはそれも存在しない。
時間と持続
「一般相対性理論」は、いわゆる重力論である。等速運動のみを対象とする「特殊相対性理論」を拡張して、加速度運動にも対応できるものとしたのだが、それはつまり、包括的な宇宙構造を記述しうるものに発展させたということを意味している。
重力は万有引力として地球がわれわれを引っぱっているのではなく、地球の質量によって、ちょうど蟻地獄のように時空が歪み、付近の物体はそこに落ちこむというか、引きこまれるわけである。
要するに、ものが落下するのは、その蟻地獄の斜面をすべり落ちているのである。私が宇宙空間に投げ出されることなく、地面に足を着けていられるのは、空間が屈曲しているおかげなのだ。
空間が曲がっているということはまた、時間も曲がっているということでもある。したがって、蟻地獄の底に近づけば近づくほど、そのぶん、時間の進行は遅くなる。地上とエベレストのてっぺんでは、わずかだが、時間の進みかたがちがってくるのだ。
時間を空間的に表現すると、小林秀雄に怒られそうだが、曲がっただけ遠回りになるので、それだけよけいに時間がかかるということだろう。
空間にくらべて時間の曲がりぐあいが少なく感じられるのは、人間の基準からすれば、時間の質量がいちじるしく軽いからであろう。
ところで私は、相対性理論の教える重力の構造を説明するにあたって、空間と時間に分けて記述した。
しかし、自然の側から見れば、それらは一つの作用だ。それを別々に見なければならないというのは、もっぱら、人間の側の事情なのである。自然に責任はない。
つまりここに、かつてカントのいったように、空間と時間は人間の認識の様式であることが認められる。
前回、書ききれなかったが、こうした点でも、アインシュタインの相対性理論はカント哲学を継承するものである。
ユニテから身を起こす
『感想』の冒頭は、世に知られた、小林秀雄の母親の死に関するエピソードではじまる。
その「或る童話的経験」とは、母親の死の数日後の夕暮れに蛍を見て、「おつかさんは、今は蛍になつてゐる」と直感したことと、さらに二か月後、酔っぱらって水道橋のプラットフォームから線路に墜ちて奇蹟的に助かったこと。
私は、黒い石炭殻の上で、街灯で光つてゐる硝子を見てゐて、母親が助けてくれた事がはつきりした。
この経験についてかれは、「確かに自分のものであり、自分に切実だつた経験を、事後、どの様にも解釈出来ず、何事にも応用出来ず、又、意識の何処にも、その生々しい姿で、保存して置くことも出来ず、ただ、どうしやうもない経験の反響の裡にゐた」と告白しながらも、「それは、以後、私の書いたものの、少なくとも努力して書いた凡てのものの、私が露には扱ふ力なかつた真のテーマと言つてもよい」と記している。
つまり『感想』は、最初は文字通り「感想」として出発するも、しだいに「露には扱ふ力なかつた真のテーマ」へと引きこまれてゆき、ついにはベルクソンから、量子力学へと突き進んだ、ということらしい。
「童話的経験」は、かれにとって確かな「実在」であり、人が何といおうとも、それをたんなる思い過ごしであるとすることは、どうしてもかれにはできなかったからである。
この母親のエピソードを読んでいて、ふと、だいぶ前に読んだ、小林秀雄とガブリエル・マルセルとの対談を思い出した。いま手元にないので確かめられないのだが、来日したマルセルを鎌倉の小林邸に招いてのものだったと記憶している。
私に特に印象にのこったのは、マルセルのカトリシズムに対して、小林秀雄が言霊とか日本古来の信仰について、断定的に、滔々と語っているシーンだ。そういう不合理な話をストレートに語るかれのすがたを見たことがなかったから、ちょっと面食らった。
大岡昇平も、長いつきあいだが、あんな話をする小林をはじめて見たと、どこかで語っていた。
マルセルとの対談における話は、かれがふだん、心の奥底に畳み込んでいたものとして、『感想』における「童話的経験」とつながっているのかもしれない。「露には扱ふ力なかつた真のテーマ」として。
正直いうと、マルセルとの対談を読んで私は、しゃらくさいこといってやがると、いくぶん反感をもった。その手の話を聞かされると、動機はどうであれ、「人という字は……」という金八先生の説教と同様に、私には、無反省な不合理の押し売りのように感じられ、勝手にしやがれ、という気分になる。
誤解されては困るので、急いで断っておくが、私はそういうものすべてを軽蔑し否定しているのではない。
三輪山に登って、深山にある神籬のほどこしてある巨石群を見て感動したこともあるし、日が落ちて真っ暗になった天岩戸神社の境内で、言い知れぬ畏れの感情にみたされたこともある。それは私にとって「実在」する経験だった。
だが、言霊の力とか、「人という字は……」というような話をする人々は、そのマジカルなパワーをどれほど真剣に信じているのか。実際には、占いに凝る人たちと一緒で、自分自身すら半信半疑の事柄を安易に口にだしているのではないか。
しかし小林秀雄は金八先生とは全然ちがった。実際、桁ちがいなのだ。
不合理を合理的に追求すること――それが、『感想』のモチーフをなしている。あるいは、個別を普遍によって弁証するといってもいい。
それが甘ったれた家族愛から生じる幻想などではなく、たしかな実在する「経験」であると信ずるならば、これを合理的に追い詰めてゆくことができないはずがないと、かれは考えたからである。
こういうところが、数多の批評家のうちで、小林秀雄の存在を明確に際立たせている見逃せないポイントである。かれはみずからに自己肯定の放縦をけっして許さないばかりか、その跳梁を縛るのに、ロジックをもってする。合理性は、普遍へとつながる言葉のもつ重要な機能の一つであり、その機能は高度な倫理的判断を条件とする。
小林秀雄は、みずからの不合理な「童話的経験」を、まずはベルクソン哲学によって検証し、さらには現代におけるもっとも合理的な思考である物理学によって試す。個別の経験を離れて、あくまで原理的な問題として。
「持続」のうちにあらわれた「イマージュ」としての経験は、「もの自体」との直観的な相互性において、「実在」として認められる。それを量子力学の論理をつかって立証しようと図ったのだ。
こうした小林秀雄の試みが、私の連想した、マルセルとの対談でかれが披露した日本古来の思想と関係しているのか、していないのか、私にはわからない。
のちの『本居宣長』が、またべつのアプローチで、かれの「露には扱ふ力なかつた真のテーマ」に挑んだ著作であることを想い合わせると、そこに何かあるのではないかと思うが、はたしてどうだろう。
いずれにしても、小林秀雄は意識的に沈黙を選んだのだ。
言葉は沈黙に支えられている。言語表現は、話され、現実のただ中にしめされたものだけではなく、秘められ、語られることのなかった多くのものによっても構成されているのである。
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