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中村光夫の二葉亭論② 漱石と二葉亭

 NHKの「坂の上の雲」というドラマを見ていたら、わが目を疑うシーンにでくわした。

 それはホトトギスの同人会にあらわれた夏目漱石が、『吾輩は猫である』で「大和魂」を茶化していることをもって、「戦地にいる軍人を馬鹿にしている」ととがめられ、「文学者はいざとなったら軍人に頼るしかない」と、手をついて謝罪する、という場面だ。

 これは原著にはなく、脚本家が挿入したものである。

 夏目漱石という人を知っていれば、ありえない話だ。かれは旅順港閉塞作戦で戦死した「軍神・広瀬中佐」が遺した漢詩を酷評し、こんな愚作で偲ばれるのは「気の毒だ」と書いた男だ。
「大和魂」の件も、それは反戦思想や反軍思想からではなく、戦勝ムードに沸く世間の浮ついた愛国主義に冷水を浴びせるものである。漱石は、戦争の現実を冷静に評価することなく、不合理な精神主義に淫する風潮を皮肉っているのである。

 漱石は軍人に引け目などいっさい感じてはいない。政治家にも実業家にも、である。むしろかれには、文学者はそれらに先行する領域を担当する者であるという強い矜持があった。

 しかるに、この脚本家が、よりによって漱石にあんな役を振り当てたのは、理由はどうあれ、自分も文学者でありながら、二葉亭四迷と同様に、いわずもがなの事として、文学に対する「政治」の優位を信じているからだ。文学者はいざとなったら軍人に頼るしかない、文学は爆裂弾についに及ばない、と。

 なにもこの人だけに限らない、晩年の三島由紀夫もそう考えていたし、漱石にならって正直にいうと、おそらく日本の文学者のほとんどは、政治に対する文学の優位など信じてはいないばかりか、文学が現実に相渉らない不要不急の仕事であることに後ろめたさをかくしている。
 少なくとも、二葉亭四迷の政治優位説にたいして、正面から論陣をはれる文学者を、現代においても私は想像できない。

 文学と政治では、働く分野がちがうのだという主張はその通りなのだが、だとしても、前回引用した中村光夫のように、「現実と芸術の現実性との異同を考察し、そこから芸術家の生活が解決しなくてはならぬ微妙な矛盾を説くこと」を文学の効用とするのは、私にはうけいれがたい意見である。
 そういう「微妙な矛盾」がもしあるとしても、そんなものが文学の存在証明か。ここでの中村光夫が、うじうじした『浮雲』の文三と重なって見えるのは、私だけだろうか。

 文学者にかぎらず、政治家も軍人も、実業家、農業者、サラリーマン、すし屋、八百屋、どんな職業についている人も、それぞれ問題を抱え、辛く苦しい人生を生きている。文学者だけが発見し解決しうる問題とは何なのか。それは、現実生活からの遊離が生む劣等感を裏返しにした、歪んだ特権性の主張としか、私には思われない。
 そういうことでは、中村光夫も、かれが口をきわめて批判した風俗小説作家とさほど径庭はないといわざるをえない。ちがいは、作者の実感を「滑稽」とみるか否かという一点に尽きる。

漱石の矜持

 夏目漱石は、自分は「世界に共通の正直といふ徳義を重んずる」とのべていて、その点、二葉亭四迷の「正直の理想」といくらか似ていなくもない。
 しかし、全然、ちがうのだ。

 漱石の「自己本位」とは個人主義であって、「維新の志士肌」とは似ても似つかぬものである。基調にあるのは、英国流の経験主義哲学と社会思想だ。かれのいう個人の尊重は、法意識とそこから生ずる義務をともなうものであり、国家有事の場合に個人の自由が制限されるのは当たり前だとのべている。
 だとしても、こと価値という話となれば、個人に対する国家や政治の優越という考え方は通らないと、漱石は考えている。

 常住坐臥国家の事を考へてならないといふ人はあるかもしれないが、さう間断なく一つの事を考へてゐる人は事実あり得ない。豆腐屋が豆腐を売つてあるくのは、けつして国家のために売つてあるくのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得るためである。しかし当人はどうあらうともその結果は社会に必要なものを供するといふ点において、間接に国家の利益になつてゐるかもしれない。

夏目漱石「私の個人主義」

 軍人や政治家が尊重されるべきなのであれば、豆腐屋も尊重されるべきであり、そこに本質的な差別はない。政治の優位は、国家存亡の時にはいたしかたないが、そうでもないのに政治の優先を主張してやまないのは異常であると、漱石はいっているのである。

「大学屋も商売なら、新聞屋も商売だ」といってのけた漱石らしい言葉だ。つまり、軍隊も政治も、豆腐屋と同様に「商売」であり、そこには「自分の衣食の料を得る」個人の生活がある。
 これは、「常住坐臥国家の事を考へてならない」国家主義者の演説をうけて放った反論であり、かれは文学者として一歩も退いてはいない。堂々たる姿勢をたもっている。
 しかしそれは文学の特権性を楯としたものではけっしてない。
 
 さらに漱石はこうつづける。

――国家的道徳といふものは個人的道徳に比べると、ずつと段の低いものである。

 解りやすい例でいえば、国家においては、「個人的道徳」としては絶対に許されない「殺し合い」である「戦争」が、外交の最終手段として公にみとめられている。

 国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじ平気でゐなければならないのに、個人主義の基礎から考へると、それがたいへん高くなつて来るのですから考へなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きを置く方が、私にはどうしても当然のやうに思はれます。

夏目漱石「私の個人主義」

 文学者にかぎらず、政治家も軍人も、豆腐屋も新聞屋もすべてひっくるめて、万人が個人として生きている以上、国家的な価値よりも、個人的価値に「重きを置く方が、どうしても当然」であると、夏目漱石はいっているのである。
 そこには政治と文学の背くらべをしようとする意図などみじんもない。文学も政治も人間の行為であり、その底には、人間を人間たらしめる普遍的な契機がある。端的にいってそれは、善悪の問題である。
 漱石が「世界に共通の正直といふ徳義」という言葉で表現しているのは、そうした認識における「善」のありかたである。

 国家予算の半分以上が軍事費という時代に、夏目漱石が政治に対する超然とした立場を維持しえたのは、文学者であるからではなく、人間の根底にある善悪の問題を凝視していたからである。

自己本位の説

 夏目漱石は、二葉亭と同様に、江戸の儒教精神によって基本的な価値観を培った。その後、英文学を専攻するにあたり、本格的に異文化と接触したのである。
 そこでかれは、幼時から親しんだ「戯作」とはまったく異質な西欧文学を学ぶことから、あらためて「文学とは何か」という課題をつきつけられた。そこも二葉亭と同じだ。

 思い出していただきたい、明治は危機と混迷の時代だったのである。日本人は国家の存亡をかけて近代化を迫られていた。その結果、西洋の文物はすべてありがたがられたのである。

 文学においても、その作品はもちろん、西洋の小説家は日本の戯作者とはちがって、社会的にたいへん尊重されていることが知られるにおよんで、「学士様」である坪内逍遥の「小説神髄」や実作「当世書生気質」は、そうした風潮に拍車をかけ、恒産も人脈もない若者には、小説家という仕事は新時代の「いけてる」出世の糸口と映ったのである。
 これが明治文学の「下部構造」である。下部構造が上部構造を規定するとすれば、こうした明治文学が皮相なものとならざるをえないのは自明の理だった。
 かれらにとって西欧の小説はあたえられた目標であり、侵しがたい権威である。

 漱石は、そうは考えていなかった。かれはまず、あたえられた目標としての英文学を拒否した。東大を出て、教師となり、給費生にえらばれてロンドンに留学してもなお、英文学の――というより、文学そのものの価値がどこにあるのか解らなかったといっている。講壇の英文学は「人の借り着」であって、いくら威張つてみても「内心は不安」だったというのである。
 正直を徳義とする漱石は、自己を誤魔化すことなく、風潮に雷同することなく、英国の文明に惑わされることもなく、自己に忠実だった。「本場の批評家」の評価に納得できない場合、「私が独立した一個の日本人であつて、けつして英国人の奴婢でない以上はこれくらゐの見識は国民の一員として具えてゐなければならない上に、私は私の意見を曲げてはならない」と考えた。

 漱石は、「文芸に対する自己の立脚地を建設する」ことを決意し、「自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的な思索に耽る」ようになったとのべている。

 私はこの自己本位といふ言葉を自分の手に握つてから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。今まで茫然と自失してゐた私に、ここに立つて、この道からかう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。

夏目漱石「私の個人主義」

 前にものべたように、漱石は二葉亭と同じく、その根底に儒教的世界観をもっていた。
 それとはべつに、若年からの学問により、否応なく西欧の価値観をうけいれた。さらに、それを意識的に「科学的な研究やら哲学的な思索」によって補強したのだ。
 前者と後者はけっして溶け合わぬものであり、むしろ反発し合う破壊的要素である。
 漱石は、おのれの中に出来上がったこの二つの世界像を、「自己本位」に従属させ、あくまで内的なものとして処理しようとしたのである。二つの世界像の緊張関係を、その緊張のままに引き締め、統御する精神の運動がそこにはある。

 それに対して、二葉亭四迷の場合、二つの要素はかれのうちに雑然と放置されている。かれの日本的な「正直の理想」は、ロシア思想との本格的な闘争状態にはなく、破壊的要素としての役割をはたしてはいない。ために、二葉亭の「正直の理想」は、ともすると、かんたんに「武士は食はねど高楊枝」式の不合理な精神主義へと転化し、ロシア思想はそれを否定し抑制する機能を少しも発揮することはなかった。

『浮雲』にはその事情が端的に表れている。プロットにこめられた善悪の対立は、儒教的というにもあたらない、世間体や体面に気を使う旧弊な価値意識にまで低下しているにもかかわらず、かれのロシア文学の教養はそれに何ら批判的な働きをしていない。

「芸術と実行」

 江藤淳の『漱石とその時代』に、漱石は東大講師時代にもいくつかの教職を掛け持ちしていたことが書かれている。
 そのことに当時も批判はあったし、江藤淳も「意外と金に細かい」といい、その理由として、幼時、漱石が養子にだされていた経緯を綿々とつづっている。
 それは下司の勘繰りというものだ。たしかに養子体験は少なからぬ影響をあたえたにしても、かれは金に汚いわけではない。
「金力」による侵害から身を守るにあたって、東洋的な清貧の思想に頼るのではなく、脅かされぬだけの金を稼ぐ――それが、漱石の選択だ。十分な収入があれば、銀行にぺこぺこ頭を下げることもないし、意に染まぬ権力者の横車をはねつけることができる。『野分』の白井道也のような苦労はない。豊かな資金は精神に余裕をもたせるのだある。
 物質に対するに精神をもってするのではなく、物質には物質を当てる。それがこの場合、生活者・漱石の自己本位の哲学がだした結論なのだ。じつに明快である。「芸術と実行」は明確に区別され、対立項として出現することはない。

 二葉亭は「平凡」に至ってもなお、みずからの自己のありかたに気づくことはなかった。
 政治の優位をいいたてたのは、歯に衣を着せぬ言を弄すれば、政治にかかずらわっているかぎりにおいて、かれはみずからの自己欺瞞から自由でいられたからである。どれだけ現実に蹉跌しようとも、「正直の理想」はかれの内部で無傷で保存されていた。自己の否定面と正面から対面せずにいられたのだ。

 したがって「平凡」は、中村光夫のような「玄人」には強く心に響くものがあるのだろうが、私のような一般の読者を裨益するものは何もない。それは、ほかならぬ二葉亭自身が誰よりもよく解っていた事柄だったのである。

 夏目漱石が対立する二つの自己をよく統御しえたのは、かれの自己本位が、「世界に共通の正直といふ徳義」すなわち普遍的価値をつねに参照し、みずからをそれに仕えさせていたからである。漱石の文学は、かれのうちにある引き裂かれた二つの世界から共通する「徳義」を抽出せんとする試みだったのである。

 それに対して、二葉亭四迷の「正直の理想」は、中村光夫のいうような「原理」なのではなく、あやふやな恣意でしかない「実感」に依拠していた。「実感で試験せんと自分の性質すら能く分らぬ」というのは、外部の現実との相対性においてしか自己は存在せず、いかなる内的な原理も持ってはいないということである。

 漱石、鴎外のような少数の例外をのぞいて、日本の近代文学はおおむねこの二葉亭の問題をそのまま継承している。そういう場所から、「芸術と実行」とか「政治と文学」といった間違った問題の立て方が生じたのである。

 夏目漱石の中期以降の作品は、「自己本位」探究の系列として把握される。「私の個人主義」は比較的晩年の講演であり、そこにいたるまで漱石は、すさまじい内部の葛藤を経過しなければならなかった。
「則天去私」が、漱石の最後にたどりついた境地であるといわれているが、じつのところそれは、「自己本位」「個人主義」となんら矛盾するところのないものであるばかりか、同じものの別名にすぎないのである。

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神原 伊津夫
福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。