子(夫)の問題は親(妻)の問題〜与え与えられるレッスン③
当初このテーマについて書こうと思ったのは、これから書くことについてであり…①と②については念頭になく、さらっと書くだけのつもりだったのですが、何かが降りてきて勝手に書き始めたんですねっっ
おそらくではありますが、先に書いた内容を読む(読ませる)必要のある人がいたのでしょう。
画面の向こうにいる見知らぬ誰かへのメッセージ。
それらを託されたというところ。書かされたというか、まぁ…そんなことはよくあります。頭の中で練っていた文章とは別の方面に、書く内容がいってしまうこと。それが誰宛なのかは解りませんけれども。
さて今の時代、うつ病で悩む人は多いです。
私の知人にもいますし、クライアントさんにもいます。
うつ病の人の課題(カルマのレッスン)については、
過去のどこかでも書いたと思うのですが…
うつ病に悩む家族をなんとかしたいと、相談される方をお見受けするたび、
どうもこれって、うつ病患者である当人自身の問題というわけではないな…
ということに何度も気付かさせられます。
本人自身がうつ病にかかることによって経験し、学ばないといけないことがあるのは勿論なんですけど。やはり家族にとっても、学ばなければいけない、レッスンあってこその簡単には完治せず…なんですよね。
夫婦にあっては、奥さんが旦那さんがうつ病になった、親子にあっては親御さんが子供が…と…そのような形で悩まれ問題解決の方法を求められて、相談に訪れて下さるわけですが。
やはり、ここには相談に来られる方自身の、悩みを抱えることになる家族の誰かの、コントロール欲求という問題が隠れているわけです。
親子の問題に関しては、①と②に書いたことがほとんどというか、
理由にあまり大差がなかったりしますが。
夫婦の問題だと、パートナーの側に他人や物事を思い通りに操作したい、
あるいは、それが出来ないでいる現実に対してのフラストレーションがまずあって、なおかつパートナー(他者)に対する愛情や理解力の欠如といった、そういう学びの課題を持っている人がほとんどです。
あとそうですね。うつ病のパートナーに悩まされる人の特徴として、
自分はまだ本気出してないだけ〜っていうのか。
私はもっとすごいこと出来る逸材なのに、そこを誰も評価してくれてない!!
私はこんな扱いをされていい人間じゃない!!
こんなところに埋もれてていい人間じゃない、プンスカ!!
…みたいな妙な慢心や、傷つけられた歪プライドを隠し持っている人がたまにいたりするのですが、これは過去生の人生から来る特徴と言えるかもしれません(ようするに過去生において、身分ある立場や自分に与えられた権力を勘違いして、それを行使してやらかしてしまった人の特性と言ったところ)
本人が自分の気持ちに気づいていないことが多いのですが、どこかでパートナーのことを冷めた目で見下していたりする視点もあって。それは病気になったことに対してではなくて、以前から隠し持っている感情。
パートナーのことを認めてないというか、密かに嫌悪していたりとか理解を拒んでいるというか、相手を蔑んでいる気持ちを他のことにすり替えていたりすることもあるようです。
まぁ、だから結局は愛情の問題なわけです。
他者に対する愛情や思いやり、共感力を試されているといいますか、この場合 夫婦(男と女)の愛情というより、人としての基本的な愛情のことを指しますね。
だから、パートナーの方にもその人なりの理由(因果関係)があって、うつ病に罹患するわけで、そのことから学びの時間を持つことになるし、否応なく必要な経験をさせれるんですけれども。
配偶者たるパートナーの方も別の角度から見たときに、家族とくにパートナーのうつ病に悩まされる必要があり、歩み寄って共に向き合わないといけないという…やはりその人なりの理由(因果関係)があるわけです。
そうですね…
他人の気持ちに寄り添う経験がとくに必要かなと。あと、やはりこういった場合、うつ病に罹患する側も悩まされる配偶者や家族の方も、お互いに対して感謝することが圧倒的に足りない人たちであるのは否めないのです。
(そういう過去生や今生を生きてきてる)
だから、
過去の因縁があって出会った夫婦というよりも、それぞれに必要な学び(痛み)をお互いに与えられ与えることができる相手だから、引き寄せあって夫婦になりましたって、そんな組み合わせの人ばかりでしたね。
でも困ったことに、そのこと…自分が変わらないことにはと言いますか、自分が学ぶべきことを知り、それを身に付けられないことにはと言うところ。
ここは本当に当人が心で知るべきことなので、
言葉で説明してもあまり意味がありません。
そもそも言葉で説明してそれで理解できるのなら、そのような状況(心の病を抱えること)には置かれませんし、片方だけのことではなく双方にそれぞれ
異なる学びが存在しているので、片方が自分のレッスンを終えたからといって、もう片方もクリアできることってのでもないので、そこはそれ。
その後も、相方のレッスンに付き合う必要性が生じるわけです。
(サービス残業?)
ここにも愛のお試しがありますね。
てなわけで、パートナーや家族の鬱病で悩んだり、それを問題として捉えている人は、相手がうつ病という状態を通じて学ぶべきことが何であるのかを知ろうとするのと同時に、自分が抱えているであろう問題についても、きちんと振り返って欲しいのです。
自分は何を学ぶべきであるのか、家族のうつ病を通じて自分が理解しなければいけないこと、他人に対する姿勢や考え方の誤りや歪みなどについて、自分をチェックしてほしいのです。
さて①と②のまとめ。
優しい虐待という言葉があります。
植物に水を与えすぎると、かえって植物は枯れてしまう。
栄養分を与えすぎると、丈夫な植物になるかと思いきや…
軟弱な植物になってしまうし、果実も味っ気なく美味しくないそう。
トマトなどが良い例で、水を与えすぎると甘くなく水っぽいトマトになる。
けれど水やりをギリギリに抑えて、トマトが飢え渇いたところで水をやる。
すると、とても美味しいトマトになるそう。
戦後の物のない時代に苦労した親たちは、自分たちが苦労をし、ひもじい思いをしたから、せめて子供にだけはそのような思いはさせまいと、一生懸命に働き、お金と食べることだけは…物には不自由をさせないように頑張ってきた(と思います うちの親は違ってたけどw)。
けれどその結果、親子の時間が減り、家族の会話が減りました。
勉強や習い事をさせて、何か身につけさせることに一生懸命になって、
子供に手伝いも何もさせない親が増えました。
させないことの「無い」には我慢も入っていて…
属する社会は家庭と学校だけで 、兄弟姉妹の数も減ったこともあるし、
兄弟の友人や近所の子供と遊ぶ機会もなくなり、学校以外の外の世界において、別の価値観や子供社会を学ぶ機会が無くなりました。(遊びを通じて集団生活のルールを知る機会です) 同時に学校と家庭以外の逃げ道も無くなりました。
お金も食べ物も、ねだればすぐ出てくるもの。
親は自分の望みを絶対に叶えてくれるし、
自分のためにいつまでも、働き蜂としてお金を運んでくれる…
そんなふうに考える人が増えました。
必要以上に甘やかされた環境の中、挨拶をしなくても怒られないし、
喧嘩をすれば親が大騒ぎをして問題になるし、悪さを叱ったり叩いたりしたならば、すぐに体罰だの虐待だのと誤った非難が生まれる。
神経質なほどに守られた無菌室とも言える時代において、コミュ障も増え、
ロボットみたいに自分の感情さえわからないという、人の痛みがわからない機械的な人材が増えてきました。
与えられて当然 他人がやってくれて当然と思う人たちが…
あと被害者意識の強い人も増えました。してくれないことに対して、不満を持つ人たち、怒りをぶつける人々も増えるばかりで。
別にこういうのは若い人たちに限ったことではないです。
そのような考え方を持つ人たちが、矯正される場(土壌)が社会において失われてしまった。他人の誤りを指摘することがよしとされない。
「おかしいこと」を「おかしい」って言えず、
注意することは悪で、問題提起する方が悪いって風潮の、
いびつな世の中になってしまったって感じでしょうか…
児童虐待がループするのはよく知られていますが、
人間を弱くする子育てや親子関係の根深い問題は、
どこかで連鎖を断ち切らないといけません。
そのような負の遺産は次世代に持ち越さず、
それと気づいた人が子孫に与えぬように、
己が傷を癒していくべきなのでしょう。