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タイトルとは全然違う話から。

こちらの動画を見て、
もしかしてヴァーツラフ・ニジンスキーやジム・モリソン(ドアーズのボーカル)は、過去生でエジプトの王様だったんか?と思ったりした。二人の共通点として、ステージ上(人前)でそーゆーこと(お一人様行為)をしちゃった人なのでw

いやさ、ニジンスキーは若い魂なのでアレだ。というか、彼がもしもエジプト王国時代の王様に転生しちゃったらば? 

全然ヘーキつかーむしろ、オンステージでの本領発揮だったかも知れない。適役ということで。皆様に喜ばれるギブアンドテイク的な転生転職ポジション?
ジム・モリソンの場合、ホントそうだったとしたら面白いw

なに? 大勢の前でオ〇ニー?
全然ヘイキですよ、むしろ得意です! お任せ下さい

とある人にとっては恥辱的な、絶対やりたくないですって憂鬱な儀式かも知れないけど、そういうのがカ・イ・カ・ン(セーラー服と機関銃)な人にとっては、winwinなんでしょうね。

「牧神の午後」の、なんだー その問題のシーンだがね
まあ、決してモロだしではないようですが

音楽ヲタで歴史好きでこんな仕事をしている私は時々、
「ジョン・レノンは今、どこの国で何をしているんだろう?」とか「フレディは?」「みんなこの後、どうなったんだろう?」などと、転生先を知りたい欲求に駆られたり、勝手に前世なんてのも見たくなってしまう時があるのだけれども、如何せんそれはタブーなこと。
仕事という、相手に依頼されての必要性が無い限りには、単なる好奇心で他人の「プライベート」を視ると言う行為は絶対にしてはいけないこと。

とは言うものの、たまに意図せず自動的にキャッチしてしまうことがないわけではないし、稀に他者から情報を得られることもあったりしますが。
但し、正確性のほどは解りませんよねぇ。確証出来るか否かというと、妄想やガセである可能性も否定出来ない。

何はともあれ、ミーハー精神?で、「その後(今生の行方)が気になる」人は数あれど、覗きたくても覗かせてはなかなかもらえないものです。でも、うずうずしますけどねww

さて、本題。

「真のエネミーは自分」という言葉があったりします。

※エネミー【enemy】敵。敵対する者。
「パブリック・エネミー(=社会の敵)」

敵というのは、外部に存在するものとほとんどの人が思いがちです。この場合の外部とは自分以外の他者。内側・自分側の人間(パートナーや身内、味方も含めて)であったとしても、対自分という関係性では「敵」となりうる存在。

親がそれを愛と誤解して、その人を甘やかしてダメにする「優しい虐待」を行うことや共依存などの不健康な関係性が示すように、その人から何かを奪う行為をする相手は、やはり「敵」と区分して差し支えないのです。
(奪われる何か=自立の機会、生きる力、精神性やアイデンティティなど)

でも、時にその敵が誰でもない「自分」であることがあります。外部の存在、第三者的立場にある他者ではなく、内部の存在としての自分自身、自分が自分の邪魔をし、傷つけ、追い詰めている存在で敵であるということが…

他人は自分の写し鏡というように、確かに自分の内面的な問題を他人に投影して、それと対峙させられることはよくあります。(これをシャドウセルフという)
心理学的にも説明されていますし、霊的真理の教義においても、エレメンタルの顕現化(現実化)ということで、カルマのレッスンとして、霊的成長のための学びとして対峙させられる経験にもなるわけですね。克服すべき事象ということで。

この場合の克服というのは、愛ある考えや反応、行動を学ぶということで、それは他者に対してもですが、自分に対しても愛を持つということです。愛は理解でもあるわけで、その事象の意味を理解する過程(プロセス)において、その感情を理解して癒したり、赦したりする中に、他者だけでなく自分も含む必要性があるのです。

でも、自分に対してとても甘い(自分に甘く他人に厳しく)人がいたりする裏腹で、他人のことは理解出来て赦したり助けりてを差し伸べることが出来るのに自分に対しては異常なほど辛口な(他人に甘く自分に厳しい)人がいるのですね。

そして、今生の人格がそのような傾向を持っているということは、過去生のパーソナリティの中にもそのような傾向を持つキャラクターがいると言う事実はほぼ間違いなく…

時に、過去生のそのようなパーソナリティ、今生の人格(プレゼント・パーソナリティ)に対して、スパルタ的教育を施そうとするキャラクターたちが団結して、あるいは数ある過去生のパーソナリティの中での一人が主導権と力を持って他のパーソナリティを統率し、これでもかという位の試練を与えようとすることがあったりします。

これは本当に厄介なことです。
たぶん過去にも似たようなことを書いたかな、と思いますけど…今回改めて実感することが我ながらというか、自分のことにしてもクライアントさんの事例としても、遭遇することがありましたので、再度書き起こしてみることにしました。

過去生のパーソナリティと言っても、それはエレメンタル(クローンのようなアバターのような過去の人生かつ、とある人物として生きた総てのデータのコピー)なんですが。

あくまで「過去」で通り過ぎてきた部分です。自分の歴史の足跡。過去があるから今があるわけですけれども…それでも、昔の自分に過ぎず、成長過程の一部なんですね。

霊的には今の人生、今生が一番、成長(進化)しているわけです。過去の自分よりも当然、経験値も蓄えています。今が一番優れているといっても過言ではありません。

また、パーマネント・パーソナリティ(本体たる魂)と過去生のパーソナリティは一致していません。
よく、ニューエイジ系やすぴ系の人は、ハイアーセルフ(高次の自分)という言葉を好んで使われますけど、ハイアーセルフ=パーマネント・パーソナリティというわけではありません。

私が思うに、ハイアーセルフと言うのは、数ある過去生のパーソナリティたちの中でも、もっとも模範的な人生を生きられたパーソナリティのように思います。ようするに、たくさんいる過去生の中での優等生に位置するキャラクター。

この辺りは多重人格(解離性同一性障害)とかでのキャラクター分類に従った時の模範的な人格に相当する人と言っていいかと思います。その逆で、その人の人生の邪魔をする、問題行動をとるキャラクターがシャドウセルフですよね。怠惰な劣等生がロアーセルフと言ったところで。幼少期の癒されていない傷を象徴する幼児キャラがインナーチャイルドというわけで。

未だパーマネント・パーソナリティに近づけず、至らず…が輪廻転生を繰り返している理由でもありますから、どのキャラクター=パーソナリティも、パーマネントパーソナリティには及びません。しいていうならば、過去から現在に至るすべてのキャラの中で、一番パーマネントパーソナリティに近いところにいるのが、今生のパーソナリティ、今の自分なのです。近づきつつある…わけですから、その距離は一人ひとり違いますが。

少なくとも、過去生の人格よりも今生の人格が、一番パーマネントパーソナリティに近い人格なんですね。

で、パーマネント・パーソナリティは、神道における「内神」さまで「直霊(なおひ)」でもある。いやさ「直霊(なおひ)」は仏教では「宝珠」とも言い表される6次元の身体でもあるから、神(絶対存在・宇宙的創造意識)そのものとしての私たちともまた違うのだけども。

パーマネント・パーソナリティは絶対存在の一部(セル※)で、同時に霊=魂=人。
※宇宙を一人の人間の身体として捉えるなら、一個の細胞(セル)という意味合い。そしてその細胞の一つひとつに生命があり、個としての意識、人格が与えられた状態が霊=魂=人

そのセルが投影される世界が三次元で、三次元の物質として個別の肉体を与えられた私たち。とても高い次元からとても低い次元に、波動の低い物質として存在しているということです。
イメージとして、光が闇の世界に降りてきたみたいな感じ。

パーマネント・パーソナリティは、分離した感覚を持つ個の意識でありながら、同時に融合調和した、絶対存在の一部としての全体性としての存在でもあったりする。

だから、ここには否定的感覚はないんですね。否定すらも否定しない。他者との区別はあっても、差別はない。
自分も他者も否定しないし、評価はしても批判もない。
つまり、ジャッジの無い世界に属しているということ。同時にジャッジという認識も理解していますが。

なので、パーマネント・パーソナリティとしての私たちは、自分も他人も否定しないし、ジャッジしないし、拒否も批判もしない。ここには罪悪感もない。ネガティブを悪と決めつけて排除することもない。すべてを飲み込んで、ありのままに受け入れるだけ。だからこそ、癒すとか赦すとか、そういうのも敢えてする必要がない。
あるのは、許容と至福と絶対的充足と「will pleasure」のみ。

三次元的に言うなら、衣食住足りて何とやら…かな?
いやさ、だいぶ違いますねっっ

なので、どちらかというと、パーマネント・パーソナリティは今の人格には干渉しない。好きに、自分のやりたいようになさいなさい…的な…放置親?とは違うけれども…自由意志に任せている感じですかね。

キリストのたとえ話で言うなら、「放蕩息子」というのがまさに三次元で旅をする私たちなので。

だから、失敗もしなさい、成功もしなさい、他人を害さない限りには自分の好きなこと、やってみたいことを、好きなだけおやりなさい、気が済むまで。疲れたら、帰って来なさい…なんですね。けれど、宇宙の果てまで行きっぱなしというのではなく、最終的にはこちらに帰ってくるという旅をなさいなさい…その戻ってくる旅の間に「好きなことを好きなだけ」ということ。それが私たちの輪廻転生の旅。

でも、旅の間で「助け」を求めてはいけないわけではない。
助けを求められた時、インスピレーションとしてアドバイス的な導きはしてくれますかね。というか、私たちがパーマネント・パーソナリティに「触れ」に行くか否かって、それだけなんですが。
これは「アドバイス」を求めると言うような、言葉(神託)をもらう三次元的な行為とはまたちょっと違うんですよね。
自分を感じる瞬間を得るって言った方がいいのかな。言い回し、説明がちょっと難しいんですけど。

ただ、人間としての形骸を持った、過去生のパーソナリティとコンタクトを取る時には、過去の自分ではあるけど、人格を持ったエレメンタルだし、今の自分とは明らかに異なる個性でもあるから(もちろん思考回路や感情的感覚は似てますけど)、「言葉」や「考え」「想い」として入ってきますよね。
だから、それを「ハイアーセルフ」として、アドバイスやメッセージをもらったように捉えるのは、当たり前かなあと思ったりします。

実際、私の仕事においても、クライアントさんの過去生の人格やガイドスピリットやご先祖様、亡くなられた身内やその人を思う人たちからメッセージを受け取るなど、コンタクトを取ることはあるので。

相手(その意識や意見を持った存在)が誰であるかって違いなだけで、あまり差はないです。

ただ、その人のことを思ってはいるけど、それは現実の人間関係と同じで、その方たちの相手に対する想いが必ずしも当人にとって「ためになること」とは限りませんよね。
ありがた迷惑な、でしゃばり的お節介な助言であったりすることもあるし、余計なお世話を行き過ぎて思い通りにコントロールしようとするエゴイズム的過干渉ってこともあったりするし…「よかれと思って」なことではあるけれど、今の時代にはそぐわないとか、誤った観念や思い込み、間違った正義感からそれをしてしまっていることも、無きにしも非ずだったりするんですよ。

この辺りを見分けるのは、ちょっと難しいんですけどね。

言えているのは、過去生のパーソナリティ(自分)だから、今は三次元の身体を失くして霊体(幽霊)となってしまった存在だからと言って、「正しいことを知っていて、正しいことを言っていて、正しい行いが出来る」人たちとは限らないってことです。

それが霊であっても、エレメンタルでも。ご先祖様でも何でも。親や師匠や、先生と言われるような士業の人たちがいつも正しくて、間違いを決して犯さない人たちとは限らないってのと同じです。

もちろん、正しいこと、的確なアドバイス、さすがと思える智慧や対応、それらを教えてくれることの方が多かったりはしますけども。愛ある言葉、愛あるサポートではあるけれど、すべてを委ねるのは自分の人生に対して無責任であるといか言いようがありません。

なので、ありがたいアドバイスやサポートはそれはそれ、なんですね。最終的にそれを受け入れるか否か、従うのが得策か否かを判断するのはすべて自己判断で自己責任というものです。そう考えなければなりません。

視えない世界からの情報で、視えない存在たちからのアドバイスやサポートだからと言って、盲信的に受け入れて、それに従うのはあまりにも主体性が無さ過ぎるし、自分の人生に対して無責任と言う他ないのです。

それはそれ、これはそれなんですよ。
生きている人間との付き合いも、視えない存在との付き合いも少しの差異はなく、同じように考えるべきなんですね。

「そこに愛はあるのか?」と…

他者の行為やアドバイスに対しても、自分の行為や動機、反応や思考に対しても、常にこの問いをフィルターにして考えて、判断することが重要です。

そうすれば、悪質な宗教の勧誘に騙されたり、イカサマな霊感商法に引っかかったり、詐欺みたいな商法の讒言に乗っかったり、ニセモノな占い師や霊能者(霊媒師)やすぴ系サービス、自分から搾取しようとする人間関係に騙されたり、毒親や配偶者の餌食になることも無くなるはずです。

ああ、なんか話がすごーく逸れてしまったっっ
いつものことなんですけども。

真のエネミーの話に戻りますね。
エネmeというのは、ネットスラングになりまして…

エネme
何もかも自分のせいだ、自分が悪いんだ、と考えてしまう傾向を指す意味で用いられるスラング自分自分の敵(エネミーになってしまっている、自分で自分に害をなしている心理的状況相手典型的に家族義父母)の理不尽な要求責任転嫁などに対しても、自分不甲斐ないせいだ、受け入れるのが務めだ、嫌だと思うことはいけないことだ、などと考えてしまい、自分負担引き受け形で場を収めようとしてしまう傾向

https://www.weblio.jp/content/%E3%82%A8%E3%83%8Dme

はい。私も実はエネmeだったことに、最近ようやっと、今さら~という感じで、気づきましたんですよ。

昔からのお付き合いの長いクライアントさんで生徒さんであるMさんからも、前々から「アルマさんは何かあったときに原因を他者ではなく、まず自分にあると第一に考えるし、自分を責める傾向にある。とにかく自分を追い詰めすぎる」と指摘されていたのですがwww

「自分にも他人にも厳しい」タイプのようですね。
結構、自分に甘々だと思ってたんですが…違ったのか。

さてさて…
私は幼少期から、貧乏でした。いやさ、父親は50年前で年収600万以上(多い時は一千万位)稼いでいた人なんですけど、家にお金を入れなかったんです。自分の身内に使う人で、気前良く周囲や同僚や他所の職人さんたちに奢ったりするくせに、経済DVっていうのかな… 自分の妻と子にはお金を使わない人でむしろ取り上げる人だった。
父方の父母は裕福だったけど、色々揉めたので遺産相続は放棄させられましたし。母方は貧乏だったのでそこはそれ。

だから、世帯収入はあったけど、母が内職しないと食べていけなかった。私は欲しいものはもちろん、必要な衣類とか学校で使う文房具でさえ、すべてお下がりで古いものばかり。ご飯も満足に食べれませんでしたしね。小中学では給食が栄養源で。

高校の学費、定期代、自分の部屋で使う暖房器具とか、そういうのもアルバイトして購入する有様。

お金が無い…困窮に悩まされるってのは、それは成人になってからもありましてね。いやさ、収入の安定した仕事につかなかったのがいけないんですけども。

貧乏だけなら、まだいいのですが、毒親ということで虐待のおまけつきでしたからね。

それは実家を出たことで解放されたわけですが(物理的な距離を置くって大事です)。お金の問題、困窮するってことで締め付けられるパターンが何度かあるわけです。

今もそう。例の妨害がそこに出ているって話。

なので、色々とそれらを解決すべく、根絶すべく、長年放置していた問題を片付けるために向き合って、あれやこれや水面下で取り組んでいるのですが<魂の暗夜

ある日、おかしいじゃない? レギオンたちからの妨害や邪魔があるにしても、それを受けながらも「回っている」人はいるし、辛い思いをしながらも、視えない世界からのサポートを受けて皆なんとかやれているものだし、数年で抜け出すことが出来ていたりもする。でも、私は「生まれた時」からで、未だ続いている。定期的に起こりすぎるし、いくらなんでもトンネルの出口が見えなさすぎる…ここまで酷いのは…助けが差し伸べられないのは、ちょっと、おかしくね?

と。そんなこんなで自問自答していたのですが。

あれこれすったもんだのあげく、
私の中にある「罪悪感」が問題だったことにようやっと気づきまして…

そうですね。私の人生でこれだけの目に遭うのは、過去に何かよっぽと酷いことを他者に対して、しでかしてきたんだろうって…そう言う想いがあったんです。

思い出してはいないけれども、埋没させ、忘れている記憶の中に、自分が思い出したくない、忘れてしまいたい、なかったことにしたいほどに、残虐で非道なことを他者に対して、いっぱいしてきたに違いない。たくさんの人に復讐をされるほどのことをやらかしているんだろう…と。

前述したMさんとか別の人に手伝ってもらいながら、他者の視点を借りて、色々と過去を辿ったり、今生に生きている(影響を与えている)呪詛とか、そうしたものをあれやこれやと紐解き、対処し、お掃除をし…

でも、過去に関しては、「逆恨み」とか「嫉妬」とか、私にはどうしようもなかったことで痛手を被ったことばかりで。

ちょっと前の記事にも書いたように、他人に親切にしたり、手を貸したことで「飼い犬に手を噛まれる」的な目にあったり、ボーダー的なメンヘラさんの標的になってしまったとか…そんなんばっかなんですね。

「あれ? 私、悪くないじゃん?」みたいな事故にあったような。そうした目にあった因果関係として、その相手にそんなことをされたのはそれ以前にその人に酷いことをした応報じゃね?と疑って探っても、そんなことはないみたいで。

単純に執着されたり、理不尽なことで付きまとわれているだけだったり…???

思ったより、私「ひどい奴」だった事実はなかった…

ことに気づかされました。
むしろ、大したことではないのに「自分のせいだ」「私が助けられていれば」と仕方のないことに対して自責の念を持ってしまい、気に病んでいた…だけだったり。

わりと「人助け」をしてて、結構「他人のためになること」「国のためになること」を主義主張・大志を持って、頑張ってたんじゃん!って人生が多かったりして…あれ?…で。

もちろん、伝え方ややり方が上手くなくて、誤解されたり、考えなしで軽率で、未熟だったことからの失敗とか、そういうのもたくさんあったりするわけですが…それくらいなら、悪意をこめて誰かを害そうとか、そういうのではないのだから、まあ許容範囲じゃね?ってことが多かったり。

そこまで自分を責める必要はないのでは?

という、下手な罪悪感ばかりでした。
罪悪感ナルシストみたいな…果てまた自己憐憫ナルシスト?

まあ、早い話がヒロイズムに酔ってんかー?みたいな感じですよねっっ 自分でも引くわ。

はい、
「私には幸せになる資格がない」「生きる価値がない」
「愛される資格なんてない」「赦されるべき人間ではない」

これが原因でしたー どうやら、自分で自分に自虐的に罰を与える人生をセレクトしていたようです。トホホ

お金は、愛情の代替品で、
それ以上の次元にある愛の、三次元でのカタチですからね。

私はそれを自分に与える「許可」を出してなかった模様。

こういうのは、自分に厳しいとかそう言う以前の問題で。
自ら苦行を実践する生き方をして、罰していたんですね。
罰を与える必要なんてないのに。

私は私と関わった人を不幸にしてしまう…
という考えは、過去の出来事から来る、誤った認識でどうにも困った思い込み、思考回路だったわけです。

まあ、そう考えてしまっても仕方のないような人生を生きてきちゃいましたけどね。
<振った相手が自殺とか、恋人が殺されちゃったりとか。策略に嵌ってしまい、大勢の部下と共に全滅とか、託宣をしたのに国が滅びたとか、任務(密命)を果たせず途中で死亡とか…

他人には…お客さんに対しては、「自分をまず愛しましょうよ」とか「相手を赦せない自分を赦す事ですよ」な~んて、
言ってるし、言えちゃうんですけどねっっ

あなたのせいじゃないって。

でも、自分にはまったく言えて無かったと言うか、自分に対しては当てはめて考えたことなかったですねー

自分のことはいつも後回しで、人生は修行だー!すべては里の修行だ、修養だあ~とばかりに受け止めてまして。
いつも自分に我慢を強いてた気がします。

そんなんで、どうしていつも「お金の問題」なのか。貧困で供給が途絶えると言う状況に陥るのか…
その謎の問いとしては、それが私にはどうしようもない状態だからです。物理的な問題だし、物理的な次元で生きていくためにはどうにも避けられない、求めずにはいられない(ないことには生きていけないし他人に迷惑をかける)ものだからです。考えないといけない問題でもあり、軽視も出来ない、無視して通り過ぎることのできないことだから。

例えば、病気だったら、私の場合はそのまま甘んじて受けてしまうわけですよ。たぶん癌になったとしても、受け入れて治そうとはしない。死を待つだけ。まあ、病院には行くでしょうが…積極的に治そうとか、原因を取り除こうとはしない。自分への罰だとか、不摂生のせいだとか、それで済ませて、生きる気力とか特に持たない。

状況や環境も、我慢して、自分の内側に原因を探して、精神を鍛えるチャンスとしてしまって終わり。

苦行として、乗り越えるべき壁として…忍耐をひたすら自分に強いることをしてしまう。

また、お金があったら、たぶん私はこの仕事をすることを選んでなかったと思います。
思えば、交通事故で手を傷めてしまったことで、道と夢をあきらめてしまい、働く手段をなんとかしなくてはいけなかったから、占いの仕事をせざるを得ない状況に導かれたんでしたっけね。

その後は、愛猫を失ってしまったダメージで茫然自失となってレイキヒーリングを受けることになって、治療費で多額の借金を抱えることになったことで自宅で占いとかアロマの仕事をすることになり、結果的に成り行きでヒーリングも行うことになって今のスタイルの仕事へと導かれた。

この辺りの詳細は過去に何処かで書いてますが。

今回もそうですね。この慢性的な金銭の問題…いつも経済的苦境に繰り返し陥ってしまう原因を掘り下げることをしたことで、結果的に私は自らの過去生やそこに付随する問題(他者からのサイキカルアタックやアサルトと言った呪詛的仕掛け)に対処することになったのですから。
問題として表層化していなかったら…これが金銭の問題では無かったら、絶対にスルーしていたはずなんです。やれ苦行だ、自分を鍛えるためのレッスンだと自らに犠牲と精神的忍耐を強いてしまって…はい、絶対にそうしていたでしょう。

おまけというか、副産物として、私はいくつかの過去を癒すことになりましたし。

とは言うものの、今こうして、自分で自分をイジメる考え方をしていること、それが故の放置(ガイドさんたちは敢えてこの状況を利用して、助け船を出さずスルーしていた)だったということ…そういうのを理解したからと言って、それですべてではないというか、現実がすぐに変わるかというと、そこは期待しすぎてもダメということですかねw

導き出した答えが「正解」で一つの「気づき」ではあるものの…まだまだ、課題は残っているようです。

ようするに、顕在意識ではそれを理解したものの、潜在意識の自分、無意識下の自分がすべてを手放し、十分に納得しているかという話。過去の自分(過去生のパーソナリティ)たちを統合出来ているのか否か。それはこれからも少しずつ進めていかなければならないことです。

過去生の癒しとは発掘作業のようなもの
焦らず気長にやらないといけません

そうですね。先日も、「もうこれ以上、傷つけられたくない」という気持ち、過去の出来事・経験からの今の仕事に対する感情的拒否反応、それに応える形での過去生のパーソナリティ数人が、未来の自分である今生の私を「護ろう」とするあまりに、色んな流れをシャットアウトする「あるもの」を設定してくれていることを知りました。

それは悪意からではないのです。護ろうとする善意であり、傷つきたくない、傷つけたくない、これ以上はイヤだ…という気持ちを尊重しての行為ですから。お節介と言えばそうだけど、純粋な親切でもあるのです。

そうかと思えば、自分をジャッジするキャラクターもいます。「こんな自分ではダメだ」「まだまだ未熟だ」と私を鍛えようとする、指導する心づもりで厳しい道を与えようとするパーソナリティもいたりするのです。

これは私自身の事例だけでなく、クライアントさんの事例としてもたくさん見てきたケースです。

これもまた、一種のシャドウセルフであり、行き過ぎた罪悪感や正義感、狂信的な精神主義の産物と言った、ネガティブエレメンタルの一部なんですよね。

結局、今の人生たる未来が閉ざされているわけですから。
魂の本当の望みを叶える障害で、邪魔をしている過去の不要な思考のゴミなんですよ。これまたエゴイズムなんですね。
自分に対する「愛が欠落」した考え方によって生まれたものですから。

そんな感じで、意外なエネミー(エネme)、いるものです。
今生にある思考、思い癖もエネmeで、過去生もまたエネmeだったりします。エネmeに視えないエネme、たくさんいます。

私の場合も盲点でした。
自分に対する優しさの視点、欠けてましたねー

今はまだ気づいたばかりで、長年染みついた、体内に深く埋め込まれてしまった考え方なものですから、それを手放すのには時間が掛かるかなと思っています。
少しずつ少しずつ無理の無いように手放し、誤った観念を修正しつつ、それらの考え方とサヨナラ出来たらいいなと思ってます。



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The Sacred Journey ~スピリチュアル・セラピーの現場から
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