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おじいさんがくれたナボナと子ども用スタンプカード
あれは私が小学生の頃だっただろうか。
電車に乗っていたら、「これは席を譲るべきだ」と確信できるくらいにはご年配のおじいさんが乗ってきて、「どうぞ」と席をお譲りしたときのこと。
「ありがとう」の言葉と共に、「よかったら食べて」とお菓子をいただいたことがあった。
飴とかではなく、なかなかのサイズ感がある、なんだか立派そうな個包装のお菓子。
席を譲っただけでこんな大層なものをもらってしまってよいのか?と今なら恐縮してしまいそうだが……当時の私は「ありがとうございます」と受け取ったまま、結局食べることはなかった。
明らかに人が良さそうなおじいさんが、ただただあたたかい気持ちで差し出してくれたお菓子なのに。変に疑い深い子どもだった私は、「見知らぬ人からもらったものは食べちゃいけない」と頑なに食べなかったのだ。
危機管理能力が高いことと、人の気持ちを踏みにじることは紙一重だなあ……と今になって思う。
見慣れぬお菓子の正体は、亀屋万年堂の「ナボナ」だった。ふわふわの生地の間にクリームが挟まった、なんともおいしそうなお菓子。なんと昭和38年から発売されていて、亀屋万年堂の代表商品らしい。
しかし、その一件があってからナボナにも、亀屋万年堂にも、なんとなく罪悪感があり。なんとも言えない気まずさと共に、絶妙な距離を保ってきた。
通っていた美容院が自由が丘にあったこともあり、本店が自由が丘にあることは知っていたけれど。本店しかり、支店しかり、特に足を運ぶ機会もなく時は流れ。
特に意識することもなく過ごしていたある日、私は亀屋万年堂と再会することになる。
結婚してからしばらくは、夫がもともと住んでいたアパートに住んでいた。しかし2年前、意を決してマンションを購入し、私たちは引っ越した。
数少ない駅前のお菓子屋さんとして建っていたのが、亀屋万年堂。
自ら足を運ぶ機会はしばらくなかったが、家に遊びに来てくださる方が手土産で持ってきてくださったりして、一気に身近な存在になった。どうやらナボナ以外にも、和菓子に洋菓子、いろいろなお菓子があるみたいだ。
お店の前を通るたび、大福を宣伝するノボリが立っていて、それが度々夫婦の間で話題にもなった。
「今月はイチゴらしい」「今月はシャインマスカットらしい」
毎月変わる限定の味に、私たちは興味津々で。いつか買おうと話をしつつ……「近所だからいつでも買えるし、また今度にしよう」といって先延ばしにする日々が続いた。
先日、0歳の娘を病院に連れていった帰りのこと。いつものようにお店の前を通ると「ショコラ苺大福」のノボリが立っていた。
そういえば夫が気になると言ってたなあ。今日は自宅でテレワークしていて部屋にこもりっきりだし、おやつでも買っていってあげようかなあ。
決して多くない外出の機会にテンションが上がっていたこともあり、ついに私はお店に入り、大福を買うことにした。
一番目立つ位置に置いてあるショコラ苺大福を手にして、一目散にレジへ向かう。
ナボナも置いてあったような気がするが、景色としてぼんやり捉えたレベルで、きちんと見ることができなかった。36歳にして、小学生の頃の気まずさを引きずっているなんて……なんだか少し恥ずかしい。
抱っこ紐で娘を抱えながら、まだ慣れない手つきでなんとか財布を取り出し、お会計を済ませる。すると、レジのおばさまが1枚のカードをくれた。
「こちら、お子さまにお渡ししているスタンプカードになります。」
お子さま……?えっ、0歳もお子さまとして扱ってくれるの!?
それは小学生以下の子どもだけがもらえる、「かめのこスタンプカード」というものだった。スタンプを5個集めると、プレゼントがもらえるらしい。
子ども限定スタンプカードの存在を知るのも、それをもらう権利が私と娘にあると知るのも初めてで、すっかり驚いてしまった。
まだお菓子を食べるどころか喋ることもできない、生まれてたった3ヶ月の娘を「人」として認めてくれるなんて。勝手にあたたかさを感じて、静かにじーんとしてしまった。
こんな経験は母親になってから、初めてだ。
「かめのこスタンプカードもらっちゃった!」
帰宅するなり、私はもはやショコラ苺大福よりも嬉しかったスタンプカードを夫に自慢した。なぜカード1枚にこんなにテンションが上がっているのか、きっと彼にはわからないだろう。
でもいいんだ。今日私は母親として、娘は子どもとして、社会に認められたんだ。
夫と1つずつ分けて食べた2個入り大福はとってもおいしくて、あっという間になくなってしまった。
来月はなんの味だろう?まだ2月が始まったばかりだというのに、今から待ち遠しい。
これからは限定大福を買いにお店に足を運んで、かめのこスタンプカードを少しずつためるのもいいかもしれない。
いつか2個入りから、3個入りを買う日がくること……そのときにはナボナも一緒に買えていることを願いつつ。
いつか娘にも、電車で人に席を譲るくらいにまで成長する日が来るのだろうか。そのときにはできれば気まずい思いをせず、人からの感謝を素直に受けとめられる人でいてほしいと思う。
「人と人との和を育むお手伝いをさせていただくこと、今までもこれからも変わらぬ私どもの誓いです。」
亀屋万年堂のご挨拶文には、このような一文がある。娘にも、人と人の和を大事にする人に育ってほしい。
まだまだ先の妄想をしつつ、私は今日も抱っこ紐で彼女を抱えて、亀屋万年堂がある街に繰り出す。
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