弧の道
最近...というよりも、数ヶ月前から、
孤独を感じることが多くなった。
それは、ある意味、分かっていたことなのだが、
これが、孤独、寂しさ、心もとなさ、なのかと、
今、痛感している。
ほとんどの同期が就職で修了する中、
博士後期課程(ドクターコース)に進学する学生は、
学生内では最上級生であるため、研究室内の中核を担い、
後輩の研究指導やフォローを行う相談役でありながら、
自身の研究については、相談役が教員以外いない。
それにもかかわらず、ある一定の成果を求められる。
そのため、孤影悄然となりやすい。
私は、たぶん、今、その孤影が濃くなっている。
こんな風になるために、この道を選んだ訳じゃない。
この類の言葉しか、出てこなくなった。
気付けば、現状の不満で、頭が一杯になっていた。
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だけど、分かっていたはずだろう?
同期がいなくなることも、
相談相手が少なくなることも、
責任が重くなることも、
成果を上げないといけないことも。
すべて、分かっていただろう?
その上で、この道を選んだのだろう?
茨の道だと知って、何も持たずに、そこに足を踏み入れて、
気付けば、足が傷だらけで、痛くて歩けない?
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やはり、私には、まだ、覚悟が足りない。
いつの間にか、その覚悟の足りなさを、
自分ではないもののせいにしていた。
そして、さらに自身を孤独へと追い詰めていった。
最近、自身を振り返って思う。
こんなはずじゃない。
やりたくない。
なぜ、これをしないといけないのか。
嫌だ。嫌いだ。
ふざけるな。
なんとなく、私の持病である、
てんかんを発症した時、
てんかんと分かった時、
てんかんによる偏見を受けた時、
の状況に似ていると思った。
この良くない状況を、私以外のせいにしていた。
だけど、この心の持ちようでは、現状は変えられない。
状況が変わらないなら、心の持ちようを変える。
私が、今すべきなのは、これだ。
私は、確かに、弧の道を選んだ。
それは、孤独、孤影がずっと身体に付いているだろう。
だけど、孤高、孤光にもなれるはず。
そして、私が選んだ弧の道は、
最後に、一つの大団円を描けるはずだ。
そう思うと、弧の道も悪くない。
まっすぐな道でさみしい
(種田山頭火)