【塾講師雑感】後天的な努力を褒められるより先天的なセンスを褒められる方を好む生徒が増えたなあ、最近
これはもちろん人にもよるし、あくまでも私の観測する範囲での話なのですが、後天的な努力を褒められるより先天的なセンスを褒められることを喜ぶ生徒が増えたなあ、と感じることが最近かなりあります。
例えば、テストで70点を取ったとして、お、努力したんだすごいね、と褒めるより、そのくらいの努力で70点とれるなんてセンスすごいよな、といった褒め方のが喜ぶんですよね。
まあ、この場合は、後者の方がなんとなく潜在能力が高いような感じがするから好まれるのもまだ分からなくはない。
ただ最近では、努力で70点を勝ちとった人より、センスだけで60点の方がむしろ上、といった風潮があるような気がするんですよね。自分は60点だったけど、まだ本気だしていないだけだから?おまえ、努力して70点しか取れていないの?みたいな。
一昔前は逆だった気がするんですよね。センスだけで70点より努力して60点を勝ち得たことの方がむしろ尊いと。少なくとも教育的な建前はそうだったと思います。一種の道徳というか倫理観のようなもの。
「努力」などという後天的で不確実なものより、「センス」のような先天的で確実なものの方が価値が高い!?
努力の社会的位置付けが変容し、それが子どもたちの世界観にも反映しているのでしょうか?
以上を踏まえて最近の私は、「君は語学のセンスがあるね」とか「今でこれならガチでやったらすごい伸び代あるよ!」とかいった声かけを(もちろん人を見てですが)することが多くなりました。お世辞じゃなくて思うんだけど、といった枕詞をつけることもあります。
そういった姿勢の賛否をここで論じる用意はありません。ただ、少なくとも語学学習においては、長い目で見て努力の価値は相対的に高い分野ではあるぞ!とは言いたいと思っています。
もちろん語学にもセンスというか適性は厳然と存在していて、例えば同じ10の授業を受けたとして、そこから10を受けとる生徒もいれば、5ぐらいしか吸収できない生徒もおり、またおそるべきことに20にまで応用できてしまう生徒もいます。これは生徒一人一人と真剣に向き合う授業をしたことがある講師なら嫌でも感じることではないでしょうか?
しかし長いスパンに渡ってそういった生徒たちを観察していると、この20のセンスある生徒がいつも勝つとは限らないんですよね。語学というのはたとえ20を知るとしても、継続して使っていないとあっという間に抜けていくものです。途中でやめちゃうセンスの子は、コツコツ継続する努力の子にあっという間に追い抜かれてしまいます。
X(twitter)などで見られる語学の達人の多くは、驚くほどの努力を長期に渡って継続されているケースがほとんどです。自分のことを省みても、曲がりなりに英語講師をやれているのはただ途中でやめなかっただけだな(笑)と思うばかり。
お世辞じゃなく思うんだけど、君には語学のセンスがあるし、中学・高校の6年間であっても、英語は比較的努力の報われやすい分野ではあるよ!?
ただここから先はAI技術時代における語学とどうつきあうかという難しい話になるので、そこは各自で考えてね!