言語化の限界


写真に撮ると本当より色褪せることがあるみたいに、絵に描いても景色が閉じ込められいように、きっと言葉にしてもそれは掴めないんだと思う。
(指示先のない指示語は国語では怒られる気がする。誰か宛先を下さい。)
言語化して色褪せたことはないけど、色づいたこともない。強いていうなら白黒に縁取られたそれに、読む私が色をつけてく。

「全部言語化するなんて疲れちゃうよ」
寒い廊下で隣に座った君が言ったこと、多分忘れないよ。君が覚えていなくても。
色褪せたように見える白黒の文字の羅列にもその時の私が残ってるわけで、その時の匂いでさえ捕まえたいなんて傲慢を閉じ込めて。
無かったことになんてしたくないっていうささやかな抵抗なの。
自己満足。
昨日の思い出は別腹で。

今日気をつけて帰ってねって言ってくれたお巡りさんも、
電車の隣でマフラーを褒めてくれた可愛いおばあちゃんも、
グラデーションになった水彩画みたいな空も、
多分忘れる。
覚えてるほどの物じゃないって、溶け込んでく。
思い出すことのない日常が素敵に溢れていて
それを忘れて傷ついた時に
「あった」
ことを教えてくれる字が。好き。
その時の空気感と書いた時の感情と全てを、
読む時の自分に託してあまりにも情報量の少ない50音あいうえお。

世界はあまりにも残酷で素敵で綺麗で脆くてそれをたまに忘れてしまうけど、
傷ついてしんどくて泣いたことも
あの人がくれた消えそうなほど淡い言葉も
多分思い出せはしないだけで忘れてはないの
だから書いて書いて書いて
涙は拭かないままで
全部儚いままで

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