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まずは「生きやすく」生きたらいい

今日から新しい事業が開始しました。
生活訓練という事業です。
読んで字のごとく生活能力の訓練を行う事業なんですが、趣意として
 
「暮らす、は生きる」
 
を掲げています。
広めの民家をお借りして、少し「居場所」みたいなものに本格的に踏み込んでいくことを見越した設計をしています。
 
 
まぁ、その話に直結するかどうかは分かりませんが、僕らは仕事柄「生きづらさ」というものに向き合っています。
分野としては障害福祉ですが、この業界で過ごしていく中で少しずつ「障害=生きづらさ」というわけではないことを痛感し、なんとなく今までふわっとしていた自分の考えが姿が見えるようになってきたなぁ、と思います。
 
 
障害者支援の専門職としてはダメかもしれないんですが、つまるところ僕らはこの「生きづらさ」を紐解いて、攻略していかないといけないのが役割なんだろうと思うようになったのもあって、僕にとっての「生きづらさ」というものとの付き合い方を書こうと思いました。
 
 
多分やや論理的ではなかったり、倫理的には微妙な捉え方なんかも多分あると思うんです。僕なりの捉え方なので。
「こういう考え方もあるんだなぁ」「こういうやり方があるんだなぁ」くらいの感じでゆるく読んでもらえるとありがたいと思います。
 
 
 
 
僕は今は、この福祉という分野で自分なりにやりがいとか自己実現というよりもなにか「使命感」みたいなものを自分の中で宿して、それが自分の生きる意味になっています。
 
 
でも、その反面生きることに意味なんてないんだろうなぁ、とも思っています。
今自分が「使命感」のように感じている情熱も、どこかで冷めざめして見ていて、それがいい事だからやってるんじゃなく、自分にとってそれが丁度いい「長い人生を飽きずに生きる娯楽や暇つぶし」だからそれを選んでるんだろうな、と。
 
 
 
また、僕は夢は見るものじゃなくて「叶えるもの」だと思ってます。でもカッコいい名言みたいなものを地でいこうとしてるわけではありません。
 
 
夢を思い描いてる時間は楽しいですが、叶わない時間が長引くとそれはもう苦痛に変わり、「どうせ自分なんて」って感情になります。
それよりかは、どうやって夢を叶えるか、つまり現実にしていくかを考えて具体的な行動に踏み出した方が、それがどんな小さな歩みでもそこで起こる苦痛は進む苦痛ですから。そして、自分を諦めないでいいから。
 
 

 
いつも自分の立ち位置を下に降ろして、下からものを眺めるようにしています。
仕事柄というのもあるけれど、でも謙虚さの表れでは必ずしもありません。
 
 
自分の生い立ちや自我から、元々コンプレックスが強く自尊心は高かったから、「上から目線だ」と言われたり、そのくせイジられたら拗ねてしまってた自分を矯正するために持つようになった姿勢で、最初はコンプレックスにまみれた自分のエクスキューズとして用いてた詭弁でした。
今はそんな拗らせたもんじゃなく、意味を持った姿勢ですが。
 
 
 
元々嫉妬しやすく独占欲が強く、それがしんどかったから、「相手にとって自分にそれだけの魅力があればフラれないし、無ければフラれるだけだ」と、相手ではなく自分次第と考えるようにしました。
 
 
コミュニケーションをとるのが上手くなくて、人の輪に入るのが苦手だったから、自分で輪を作るようになりました。
 
 
 
他にも、今は悩まないタイプだけど、それは悩んで苦しい時間がしんどいから解決に向けて動く方が楽だから悩む事からある意味目を背けるようにし出しただけの事が発端だったり、結構チャラチャラヘラヘラしたキャラクターですが、元は極度の人見知りを脱するため、あと真顔でいると怖がられるため、「嫌われないための」自己防衛のため、が発端だったりします。
 
 
 
 
長々と何が言いたいか、というと、ちっぽけなものですが僕も生きづらさを持っていて、それらを決して前向きに克服したんじゃなくて、単純に目を背けてみたり、自分への言い訳のようなものからスタンスを変えてたり、諦めみたいなものや逃げから生まれたものまみれな要素が、今の自分を形作ってるんだ、という事なんです。
 
 

気持ちや心が生きづらいのが一番しんどいので、最初は言い訳しながらごまかしながら振る舞いや考え方や捉え方を変えていって、何年かかけて少しずつ社会生活の中で折り合いがつくように意味をつけて、自分の中で消化して自分の人格や個性になっていきました。
 
 
つまり、まずは自分が生きやすいように、屁理屈こねながら生きてきたわけです。
 
 
 
自分の都合で人様に迷惑をかけてもきましたし、出来上がった僕みたいな人間を好まない人も多分いるでしょうし、決して立派でもない者ですが、生きていくために出来るだけ生きづらくならないように、自分の生きやすい考えや捉え方や振る舞い方を作っていきました。
 
 
これが正しいとは思いませんし、道徳的に倫理的に間違っている部分も大いにあるだろうことは承知ですが、自分の心のバランスを自分の中でとれるように自分を調整すること自体は多分悪いことではなくて、生きづらくならないように、自分を追い詰めすぎないように自分の逃しどころを作りながら生きていたっていいんじゃないかと思うんです。
 
 
誰もが聖人じゃないですし、1mmも矛盾なく生きている人も多分いないわけで、車のブレーキと同じで「あそび」がなければ人間だって事故が起きます。
 
 
生きづらさとの付き合い方って、今日に明日に解決するものではなくって、時間をかけながら覚えていくものなのかな、と思います。だったら、まず「自分が生きやすいように生きる」ところから始めてみるのも選択肢にあってもいいですよね。
 
 
今の時代に「こうあるべきだ」なんて指標を定めるのはとてもじゃないけれど難しくて、本当にしてはいけないことはいくつかありますが、そうじゃなければ自分で自分を無理やりな枠の中にはめ込もうとするんじゃなくて、自分の生きやすい生き方を探すくらいのつもりで付き合っていく、だからまずは「生きやすい」生き方から選んでもありなんじゃないか、と思います。
 
 
支援者なんだけど、人としては弱い僕のひとつの付き合い方の話でした。

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