「死にたい」とまで思う生きづらさの奥にあるもの
生きづらさ、というものを自分の中で知ろうとする時に、僕の中でずーっとのしかかっている思いがあります。
ちょっと重たい話かも知れませんが、「死にたい」という感情を抱く生きづらさについて、です。
不登校、引きこもり、障がい、貧困、DV、などなどもちろんこれらの「キーワード」となるような生きづらさについて掘り下げていくことにも関心はあるのですが、なんだろう、僕がこの「支援」という仕事に就いているのは、多分ずっと今までの人生の折々で「死にたい」と思う人を支えるという命題と対峙してきた事が根底にある気がするんです。
就労移行支援という、社会に押し出していく役割を担いながらも、同じ場所を「いつでも立ち寄れて帰ってこれる居場所」と定義づけて運営し、さらには生活訓練という事業を立ち上げた傍らでそこに居場所を生み出そうとしている思いの根っこもおそらくそれです。
もちろん僕らはそれで食っていかなきゃいけないので、戦略性も持たせますし、その後の展開などについても動線を作っているのですが、やっぱり根っこにあるのは「死にたい」だなんて誰にも思ってほしくない、そんな願いみたいなものがあるんだと思います。
だから今回生活訓練を立ち上げるにあたって、「生きづらさ」についてもっともっと分かりたいと思うようになったのかな。
ここ最近ずっと自分の中でキーワードになっています。
そんな中でたまたまとある本に出逢いました。
「死にたいままで生きています。」 咲セリさんといわれる方が書かれた本です。(勝手に紹介してすみません。)
https://www.amazon.co.jp/死にたいままで生きています%E3%80%82-咲-セリ/dp/4591145204
興味がある方は読んでみて下さい。
決して長い本ではありません。
ただ、ものすごく真っ直ぐに書かれた本です。
僕が見てきた「死にたい」という思いを抱えるほどの生きづらさを持たれた方に感じた、奥底の方の何かを、これ以上ないくらいに言語化されていて驚愕しました。
今まで僕は、「仕事」としての支援者としてだけじゃなく、自分個人の人生というか生活の中でも生きづらさを抱えた方と関わってきました。
でも、おそらくきちんと支えきれたと思える方はほとんどいません。
「死にたい」。
なぜ死にたいんだろう。どうやったら死にたいと思わなくなるんだろう。どうやったら生きようと思えるんだろう。
いつも考えていました。
今おかれている状況が改善したら死にたいとは思わなくなるはず。
楽しいことが多くなれば死にたいなんて思わなくなるはず。
生きがいや目標があれば生きたいと思うはず。
ずっと関わっている人が近くにいるだけでも死にたいは和らぐかな。
誰かに必要とされることで死にたい思いは減るのかな。
いろんなアプローチをしてきましたが、しっくりとハマるものはなかったのかな、と思います。
単純に今さえどうにかすればいい、ということではなくて、明るい未来が見えることがいいわけでもない。
一見上手くいっているように見えても、ふとした瞬間に再び首をもたげる「死にたい」気持ち。
今まで関わってきた「死にたい」ほどの生きづらさから僕が薄っすら感じていたものがこの本にありありと描かれていました。
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生まれてから「愛されていなかった」経験、もしくは「愛されている、と実感できなかった」経験。
それだけでなく、親や周囲の人に否定され続けることで、自分を否定することが普通になってしまった。
自分を否定しながらも、本当は愛されたい。自分を愛して欲しい。でも、愛されるということを感じる経験が乏しいからか、愛されたい自分の思いに気がつけず、自分なんて愛されるわけはない。存在してはいけないんだ、という思いばかりが表面化している。
絶対的なまでの自己否定感のため、ちょっとやそっとのアドバイスや助言は簡単には心に届かない。
自分を傷つけることもある。本当は気づいてほしい、自分が一番愛情を受けたい相手に。
注意を惹きたい、んじゃない。人の愛情を、相手を困らせることでしか実感できなくなる。
生きていると感じられるもの、それがないと生きていけなくなるような強烈な不安に駆られ依存してしまう。
また自分を一時的にでも救ってくれるものに依存してしまう。
愛されている、と錯覚すれば体を投げうってしがみつき、愛されていないと妄想すれば手のひらを返したように感情が暴走してしまう。
強烈なコンプレックスと常に付きまとう「見捨てられ不安」。
100かゼロしかない。完璧でなければまったく自分は無価値になる。
自分にとって「無理」とか「難しい」を認められない。なぜなら捨てられるから、不要になるから。
自分が自分を否定しているから、相手も同じように自分を否定しているという前提を「決めつけている」。
自分を「死にたい」と思うほど追い詰めてしまう自分自身でかける暗示。
不安から逃れるためにもがいて、気がつけば「生きづらくなる生き方のクセ」をトレースしてしまい、それによって人が離れていく。
⇒やっぱり自分はいらない人間、という感情がより強化される。
僕の頭の中をまるで覗いたかのかと思うような符号に、本当に背筋に冷たいものが走るような思いでした。
そして、やっぱりというか思ったより生々しいほど、親の愛情を受けられない、愛情を感じられないということ、そして幼少期に否定を繰り返されることが、一生を左右するほどの生きづらさを生み出してしまう現実を突きつけられた気がします。
もちろんこれが「死にたい」とまで思う生きづらさの理由の全てではないと思います。
自分の仮説を補完するような情報の集め方になっているところもあるかもしれません。
改めて、僕らは「今」の生きづらさだけを見ていてはいけないんだ、ということを痛感します。
この本には、セリさんが「死にたい」から「生きよう」と思えるまでの物語も書かれています。
それが唯一の答えとは思いませんが、そこにはきっと僕らの大事なヒントになるエッセンスが詰め込まれているように思います。
まだ自分の中で肌触りを持った実感を得られていないので、これ以上はまだ自分の中で議論を深められませんが、目を逸らさずに向き合っていきたいと思います。
何という結論を持たない話でしたが、対人援助を行う人すべてが、どこかで意識しておかないといけない大事な話だと思います。