本心を見つけて向き合うこと、そして語ること
「ほぼ日刊イトイ新聞」で連載中の「おとなの小論文教室。」にて、またまたメンタルをえぐられる内容があった。
この中で語られている「本心を伝えられたら、素晴らしいことが起きる、という錯覚」が私の場合、思い起こせば、もうだいぶ昔からあった気がする。
そして、「期待したような結果にならないと、これを理解しない世の中が間違っている、となる」ということも、もうザラにあった。
挙句、しょっちゅうひねくれた。
自分は世界の中で孤独な存在。
誰からも理解されず、どこへ行ってもずっと浮いたままだし、どんな言葉を発しようと、最後には嫌われる。
それなら、ずっと黙っていた方がいい。世間の片隅で、気配を消して息をひそめて生きていた方がいい。そう考えていた時期もあった。
でも、そんなことできるはずもなく。
大学で論文を書き、SNSでも投稿を続け、ほんの小さな声かもしれないけど「私はここにいますよ」と伝え続けていた。
上記の記事で、筆者の山田ズーニーさんは「想いを表現したいというのは、人間の本能的希求だ」とおっしゃっている。
私も、人間の本能的希求として、論文執筆やSNSへの投稿を続けているのだろう。
でも、「本心を伝えたからって、スタートラインに過ぎず、相手の冷たい反応に傷つくこともたくさんある」とも語られている。
あぁ、あったなぁ。いろいろと(遠い目)。
しかし、上記の記事は、以下の文章で締められている。
その「スタートラインに立つ」ってことが、難題だよなー。
いや、まず自分の本心と向き合うってことが、私にとって難題かも。
ずっと本心を無視して「周囲が喜ぶことをしなくてはならない!」と思って行動していたからなー。
でも私は、「心の奥に押しとどめるべき」と思い込んでいた本心を、どこかで吐き出さずにいられなかった。
だから、今までいろんなところで文章を書いてきたんだと思う。人に見せる見せないに限らず。
まずは、そうやって頑張ってきた自分を精一杯に誉めて、認めたいと思う。そこから何か、次にすべきことが見つかるかもしれないし。