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自分のメッキを剥がされた仕事

なぜ応募したのか今では思い出せないけれど、私にとってかけがえのない約一年働かせてもらった仕事がある。
仕事をしたとも思えない、むしろそこに行くことで自分のメッキを剝がされたのだ。

新卒で入った会社で体を壊し、3か月で辞めてしまった。
自分の中ではこれではいけないと思い、何かできないかと見つけた仕事が「認可外保育所での補助」だった。

中学生からボランティアサークルで10年間小学生の子ども会キャンプなど行っていた。
大学では家政学部で中高家庭科教員免許を持った。

なのに、なぜ経験していない未就学児のところに飛び込んだのかいまだにわからないのだ。

そこは、自宅のようなところで0歳児から5歳児まで数人が通っているところで、一人の園長が朝から夜まで基本ご飯を作り、お世話をしているところだった。
補助として一人保育士が入り、一緒に遊んだり、おやつの準備したりするみたいで、はじめは私もそのような内容をする予定だったが。。。

園長先生は私が辞めるときにこうおっしゃっていた。
「初めて見た時からあなた自身がすごく辛そうで苦しそうでどうも子どもの世話をできるようじゃないと思った。
だからほんとは雇おうかも悩んだけど、あなたをそのままほかっておくことができなくて採用したのよ。」

そう、私はなんとなく今まで学校の勉強はできてきた。それなりに中学も高校も大学も過ごしていたけど、いざここで働くことで中身が空っぽだということに気づいたのだ。

・調理を学んでいたくせに子ども向けごはんが全然作れなかったり。
・赤ちゃんのおむつも変えられない。
・やれと言われたことはできるけど、自分でどうしたらよいのか考えることをしない。
・聞かない。
・怒られると思って動かない。
などなど

学校生活では気づくことができなかった社会人として、人としての動きを本当にここで園長先生や子ども達を通して学ばせてもらった。

先生は容赦なく怒る。
私がやれることは子どもと遊ぶこと、散歩に行くこと、子どもの習い事の送り迎えをすること、掃除をすることくらいしかやることがなかった。
しかし、一つ一つ取っても先生は怒って教えてくださったのだ。

子どもを持った今ならわかる。
命を預かるということがどれだけ神経を使うのか。それが人様の子どもであったらなおさらだろう。
私が散歩行くだけでもきっと見えなくなることで心配もあったに違いない。

今ならもっとうまくやれると思う。
自分で提案したり、気づいたことを報告したりとよくするためにどうしたらよいかをダメでも言うことが大事なのだ。

そう思うと先生の器の大きさに感謝しかない。
だけど、今でも当時のことを思い出すと、自分の喉の奥がずーんと重くなる時もある。

私が引っ越すことで辞めてしまった仕事だったが、当時一緒にいた子どもたちはもう20歳になっていると思うとどんな大人になっているんだろうかと想像する。

自分が変われば子供も変わる。


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