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私の受けた時代の注意の仕方となくしものをしただけで学校に行けないという娘

「私の時代は上の方がぴしゃりと言うと、言われた本人はまず謝って、そしてどうして言われたか考える」
そうばぁばが教えてくれた。

きっかけは私が8月に研修会で行った行動についてばぁばなりに気になることがあり、FAXで教えてくださったのだ。

私は礼儀作法を学んでいても、まだ人間ができていないのでまず思ったのは「その時に言ってほしい」という気持ちだった。
その時ばぁばも一緒におしゃべりしていたやん、お菓子食べとき~って渡してくれたやんというもやもやした気持ちだった。

どうしても納得がいかなくて電話で改めて聞いてみると、ばぁばの時代の注意の仕方、私が受けた人の注意の仕方が全然違うことに気づいた。

私の時代、全部が全部ではないのはもちろん前置きはしておくけれど、先生も親も「感情のまま相手にぶつける」という感じが強かった。
そこに相手に気づいてほしい、直してほしいという思いより、自分は今怒っているを主張している感じだった。
だから、注意された時も「ごめんなさい」と言えばいいんだろうという感じだったかもしれない。

ばぁばは「注意する方も疲れてしまう、だから今はこの子なら言っても気づいてくれるかもしれない。という子しか言わない」と仰っている。
注意や叱るのってとてもエネルギーがいる。自分では相手に伝わってほしい気持ちでも受け取る方はわからない。また、嫌われる可能性が高い中で「伝える」のはとても躊躇がいるのもわかる。
それは感情ではなく言葉の重みをわかっているからこそなのかもしれない。

だからこそ今の時代は何も言わない大人が多くなったように感じる。
「言うだけ無駄」
なのだ。

では、今の子はどういう受け止め方というと、注意一つ、ミス一つで「生きるか死ぬか」のような極端な方向にはしっているとおもう。

というのも、今日娘が「算数の教科書とノートをなくしてしまった」と言った。
夏休みがあり、学校なのか家なのかも記憶もあいまいになっている。
私は「気になるなら学校に行ってみたら?」と提案するも
「恥ずかしいからいやだ」と拒否。
家じゅうくまなく探してもないので、学校にあることを祈ろうとなくてもノートは買えばいいし、教科書は学校から借りればいいと私は思っていたのだが、娘は絶望的になって「先生に怒られるのが怖いしなかったら学校に行きたくない」とまで言い出したのだ。

「上履き忘れたら怒られる」「宿題しなかったら怒られる」など色々事例を挙げておびえているのだ。
昔の私だったら「忘れたら怒られるだろう」という感覚だったが、今の私は「困るのは本人なのに怒るとはなぜだろう?」という疑問を持つようになった。

今の大人は「注意」のただしい仕方はしないのに「怒る」ことだけしてくる。
それは恐怖なだけなのではないか。

だからこそ、注意の仕方がわからないなら学ぶ必要があるなと思った。

そして誰も言わなくなった注意だからこそ、言ってくださる方に対してまずは「ありがとう」という気持ちが出てくるし、そこを受け止めることができるから自分で考えることができるのではないだろうか。

大人の注意の仕方、学んでみませんか?
そうしたら言う方も言われた方も良い方向に向かうと思います。


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