密教の煩悩即菩提
密教になってくると、煩悩即菩提の考えがでてきました。
自慢も菩薩の境地
欲のエネルギーを自分が悪くなることに使わないで、自分が良くなることに使っていく
苦を乗り越えて楽にする密教
愛も楽も苦に変わるから
苦も楽も求めない仏教とは違ってきました。
釈迦や仏教の教えは、この世は一切皆苦
その苦の社会から離れて、出家生活をして社会の苦を無くす修行
釈迦や仏教の教えの多くは、出家者の教え
禅宗や他の宗派は、社会の仕事をしていない
社会の仕事をしているかたは、仕事の時間、仕事の勉強や修行していかなければいけない
社会で生きているかたが、僧侶のやっている修行や悟りができるでしょうか?
👹
釈迦の煩悩、大乗の煩悩、密教の煩悩をよく研究しないと仏教は理解できないと思ってますが
🛐
愛染明王(あいぜんみょうおう)
愛染明王は、頭に獅子冠をかぶり、髪を逆立て、三目で、牙をむき出して□をカッと開き 6本の腕を持った恐ろしい姿の忍怒(ふんぬ)尊です。
愛染という名前のとおり、愛情・情欲をつかさどり、愛欲貪染をそのまま浄菩提心 (悟りの心)にかえる力をもち、煩悩即菩提を象徴した明王です。すなれち、 人間にはさまざまな欲望がありますが、この欲望は人間には滅亡へとかりたてる力を持つとともに、 時には生きて行くうえでの活力源となり、より多くのものを可能にし、高める力を持っています。 この両刃の剣である力強い欲望の工ネルギーを、悟りを求め自らを高めようとする積極的なエネ ルギーに浄化しようというのが愛染明王の教えです。
弘法大師によって日本に伝えられた愛染明王は、愛情などの敬愛を祈るほか、息災・増益・ 調伏を祈る本尊として、特に鎌倉時代以降に広く信仰されるようになりました。
また愛染明王には、天に向かって矢を射る姿の「天弓愛染明王」や不動明王と愛染明王の 二つの顔を持った「両頭愛染明王」などの名称をもつ異形の像があり、高野山にもこれらの 異形像が伝わっています。
愛染明王は、胎蔵・金剛界の両部曼荼羅にその姿は描かれていません。しかし、弘法大師が 中国より請来された『瑜祇経(ゆぎきょう)』に説かれています
愛染明王
古来、貴族や武家に篤く信仰され『戦の神』として崇められました。元寇の襲来を暴風で退散させたのも愛染明王さまです。
上杉謙信の直臣、直江兼続が深く帰依し、カブトに『愛』の文字を掲げていたのは有名な話で、大河ドラマなどでご覧になった方も多いと思います。
愛染明王さまは霊験が強く、無礼をはたらく者に容赦しないため、仏師は仕上がりが気に入らないと命を取られると言って、彫るのを大変嫌がったといいます。
戦の無い時代には、その霊験の強さにあやかり、高嶺の花との恋愛さへも成就させてもらえるといわれ、恋愛成就の神として信仰が集まるようになりました。
ところで、愛染明王さまの6本の手に、何も持っておられない手が1本見えますか?
これは衆生の願いをすくい取るために空けておられるのです
まずは、ご真言を覚え、お唱えしましょう。
おん、まから、ぎゃ、ばさろ、しゅにしゃ、ばざら、
さとば、じゃく、うん、ばん、こく
愛染明王を本尊とした愛染法である。
煩悩即菩提という真言密教の奥義をそのまま体現するのが愛染明王である。
愛染の「染」は「愛に染まる」ことを表すのではなく「愛という煩悩」を表す。
本来仏教では愛という煩悩は捨てるべきものであるが、その愛という煩悩を人々を愛し救うという願いに変化させる。
求めるという行為を煩悩とすれば、悟りを求めることも煩悩と言えてしまう。
しかし求める先が悟りであるのか自己中心的な愛なのかで求める行為自体も清浄となり、また汚れもする。
このような深義を有する修法であるので実践には必ず師の教えが必要である。
ただし中院流は愛染明王の奥伝を伝えておらず、如法愛染など深秘は他の法流に依らねばならないことを付言しておきたい。
内縛して忍願の指を交え右にて左を押す 真言 大呪 オンマカラギャバゾロウシュニシャバザラサトバジャクウンバンコク 次三昧耶一字印 外五鈷印を用うす
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理趣経典
十七清浄句
真言密教では、「自性清浄」という思想が根本にある。これは天台宗の本覚思想と対比、また同一視されるが、そもそも人間は生まれつき汚れた存在ではないというものである。『理趣経』は、この自性清浄に基づき人間の営みが本来は清浄なものであると述べているのが特徴。
特に最初の部分である大楽(たいらく)の法門においては、「十七清浄句」といわれる17の句偈が説かれている。初句:「妙適清浄の句」の句とは文章の句のことではなく、ごく軽く事というほどの意味である。 また、初句は総論で、四の四倍の十六の各論に総論を一つ足して十七句となっている。
妙適淸淨句是菩薩位 - 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
慾箭淸淨句是菩薩位 - 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である
觸淸淨句是菩薩位 - 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である
愛縛淸淨句是菩薩位 - 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である
一切自在主淸淨句是菩薩位 - 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である
見淸淨句是菩薩位 - 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である
適悦淸淨句是菩薩位 - 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である
愛淸淨句是菩薩位 - 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である
慢淸淨句是菩薩位 - 自慢する心も、清浄なる菩薩の境地である
莊嚴淸淨句是菩薩位 - ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である
意滋澤淸淨句是菩薩位 - 思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である
光明淸淨句是菩薩位 - 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である
身樂淸淨句是菩薩位 - 身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である
色淸淨句是菩薩位 - 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である
聲淸淨句是菩薩位 - 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である
香淸淨句是菩薩位 - この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である
味淸淨句是菩薩位 - 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である
このように、十七清浄句では男女の性行為や人間の行為を大胆に肯定している。
仏教において顕教では、男女の性行為はどちらかといえば否定される向きがある。これに対し『理趣経』では上記のように欲望を完全否定していないことから、「男女の交歓を肯定する経典」などと色眼鏡的な見方でこの経典を語られることがあったり、十七清浄句は欲望の単なる肯定であると誤解されたり、また欲望肯定(或は男女性交)=即身成仏であると誤解されたりする向きも多い。しかしこれは真言密教の自性清浄を端的に表した句偈である。 『理趣経』の最後の十七段目は「百字の偈」と呼ばれ、一番中心となっている部分だが、 「人間の行動や考えや営み自体は本来は不浄なものではない。しかし、人たるものそれらの欲望を誤った方向に向けたり、自我にとらわれる場合が問題なのだ、そういう小欲ではなく世の為人の為という慈悲の大欲を持て。 大欲を持ち、衆生の為に生死を尽くすまで生きることが大切である」と説き、「清浄な気持ちで汚泥に染まらず、大欲を持って衆生の利益を願うのが人の務めである」と説かれていることがその肝要である。
Wikipedia参照