沙門果経と釈迦の哲学
ヨーガスートラ経典やインドサーンキヤ哲学を読むと、釈迦の解脱や仏教の哲学教義そのものに感じます。
調べたら、釈迦の時代の沙門果経に書いてある、釈迦の解脱理論のような哲学者はいなかったようです。
そして、神を拝むバラモン教。
ヨーガも呼吸法や集中法で、解脱教義はまだまだなかったようです。
釈迦は出家して、哲学者の師に教えを受け、苦行のヨーガ修行をして、集中の定や智慧の能力を得て、解脱の新しい哲学理論の、十二縁起や八正道や中道や無我の理論や修行を完成させたのでしょう。
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出家した釈迦は、バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。シッダールタは、次に教えを受けたアーラーラ・カーラーマの境地(無所有処定)およびウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達したが、これらを究極の境地として満足することはできず、またこれらでは人の煩悩を救ったり真の悟りを得ることはできないと覚った。この三人の師はシッダールタの優れた資質を知って後継者としたいと願ったが、シッダールタはこれらのすべては悟りを得る道ではないとして辞し、彼らのもとを去った。
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ゴータマ自身は、最高の清浄に達したのは、さとりに至る道、戒めと、精神統一と、智慧とを修めたからであると説いている。ゴータマはそうした立場に立ち、修行完成者が善き友となることによって人々が清浄行の全体に至れるように導かれ、人生の試練や生老病死の世界からの解脱に至ることができるとした。
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断食修行でわずかな水と豆類などで何日も過ごした。断食修行によりシッダールダの心身は消耗し、骨と皮のみのやせ細った肉体となっていた。
「
私はこれらの辛い苦行によっても、人法を超えた聖なる智見殊勝を証得しなかった。菩提のためには、別の道があるのではないだろうか。
」
しかしスジャーターの施しを得たことで(乳粥供養)、過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟ってシッダールタは苦行をやめた(苦行放棄)。
35歳のシッダールタは、ガヤー(現在のガヤー県内)の近くを流れるナイランジャナー川(英語版)で沐浴したあと、村娘のスジャーターから乳糜の布施を受け、体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となったとされる(成道)。
「
解脱したとき、「解脱した」という智が生じました。
「生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。二度とこのような状態へ(至ることは)ない」と了知したのです。
」
この後、7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟ったといわれる。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。
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サーンキヤ (Sāṃkhya-darśana): 無神論的で、意識と物質の二元論を強調する。
これは、実体はあるが不変ではない、ヨーガスートラ派や釈迦やインド仏教の教えだな。
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ヴェーダーンタ (Vedānta-darśana): ヴェーダの最後の部分である知識を扱った節、つまり「ジュニャーナ」(知識)・「カーンダ」(部分)。ヴェーダーンタは中世以降ヒンドゥー教の支配的な潮流となった。
これは、この世は幻しだの理論
ヨガ行者や日本の仏教者などが言っている理論。
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追加
ヨーガスートラ経典には、神を祈る解脱のやり方もあると書いてあります。
宗教のやり方も間違っていないと思っています。
沙門果経
アジャータサットゥ王が、釈迦に、沙門(出家修行者)の果報を問うと、釈迦は以前その質問を、他の沙門・婆羅門にしたことがあるか問い返される。アジャータサットゥ王はあると答え、六師外道とのやり取りを説明する。
プーラナ・カッサパは、どんなに殺人を犯しても罪は無く、その報いも無い、すなわち「行為には結果を及ぼす作用が無い」と、質問とは噛み合わない見当違いな答えを述べたという。【道徳否定論】
マッカリ・ゴーサーラは、全ての生物には自らを変えられる能力は無く、運命と偶然性と生来の性質に左右され、苦楽を味い、一定期間の輪廻を経たら解脱すると述べたという。【運命決定論】
アジタ・ケーサカンバリンは、この世界や人間は地・水・火・風の四元素で成り立っており、死んだら灰になるだけだと断滅を述べたという。【唯物論】
パクダ・カッチャーヤナは、(プーラナ・カッサパと同じく)見当違いの答えをしたという。
ニガンタ・ナータプッタは、四種の禁戒による自己制御を述べたという。
サンジャヤ・ベーラッティプッタは、あるのでもなくないのでもないと、誤魔化しを述べたという。【懐疑論】
以上を述べた上で、アジャータサットゥ王は、改めて釈迦に沙門(出家修行者)の果報を問い、釈迦は話し始める。
Wikipedia参照