鏡の中の正義 第二夜「独自捜査の開始」
松本は捜査一課を後にし、夜の街へと身を投じた。頭の中には“共鳴”で刻まれた映像が、無限ループのように繰り返される。暗闇の部屋。泣き叫ぶ子供の声。呻き声を上げる女性の姿。そして、床に転がる血塗れのナイフ。その映像は、まるでそれが現実であるかのように、松本の思考を支配していた。
“共鳴”の主が抱えた激しい怒り――それが何者のものなのかはわからない。被害者の無念か、犯人の狂気か、それとも別の存在か。だが、確かなことが一つだけあった。その怒りが尋常ではないほど強烈であるということだ。しかし――
「……おかしい」
松本が低く呟いた声には自らの動揺が滲んでいた。“共鳴”は被害者や犯人がその瞬間に見た視界や感じた感情に繋がることができる。その発動条件は、松本自身が犯行現場にいる時だけだった。これまではーー。
それが、この数日間、場所を問わず不意に発生するのだ。自宅でも、署内でも、どこであろうと関係ない。これは異常だ。これまでの経験則を根底から覆す出来事だった。
視界の端に浮かび続ける光景、脳裏に響く断末魔の声。幻覚である可能性も否定できないが、その感情――怒り、悲しみ、恐怖――は幻覚にしては生々しすぎた。まるで自身の神経を直に貫いてくるような――これまでの“共鳴”と同様かそれ以上の――リアリティがそこにはあった。
「これは……ただの幻覚じゃない」
根拠のない確信を抱え、松本は重い足取りでさらに街をさまよった。頭の中には“共鳴”の映像が繰り返し浮かび上がる。その細部を必死に思い出し、“共鳴”の断片から手がかりを紡ぎ出そうとする。だが、無数の通りを歩き回り、建物の影を覗き込んでも、“共鳴”で見た現場には辿り着けなかった。
翌朝。捜査一課の扉を開けた瞬間、捜査一課 課長 水嶋亮介の冷たく乾いた声が響く。
「おや、松本くん。また夜通し勝手に動き回っていたようだな」
水嶋はデスクの縁に腰を下ろし、足を組みながら松本に向けて悪意を帯びた視線を送る。その目には、挑発の光とほんの一欠片の楽しみすら宿っていた。松本は何も言わず、その視線を正面から受け止めた。だが、彼の沈黙は水嶋の嘲笑を増長させるだけだった。
「リストにない事件を追いかけるなんて、無駄なことをしてるだけだ。上が黙認しているからって、いつまでも特別扱いにはできんぞ」
周囲の同僚たちは、その光景を見て見ぬふりを装いながらも、興味深そうに視線をちらつかせる。水嶋の松本に対する執拗な嫌がらせは、捜査一課のメンバーたちにとっての歪んだ娯楽と化していた。
「事件の可能性がある以上、動かないわけにはいきません。それが俺の仕事です」
松本の言葉は低く短いが、その奥には揺るぎない決意が込められていた。しかし、その静かな反撃も、水嶋にはただの戯れ言に過ぎなかった。
「お前の仕事が何かは俺が決めるんだ。そもそも、幻覚でも見ているんじゃないのか?“共鳴”のしすぎで頭がおかしくなったって噂だぞ」
クスクス…クスクス…
周囲から漏れる小さな笑い声で、松本は自分の何かが引き裂かれるような感覚を覚えた。“共鳴”――それは被害者や犯人の視界と感情を受け取る代わりに、使用者に過度なストレスを与える能力だ。その代償は、使うたびに押し寄せる頭痛、視界を侵食するフラッシュバック、そして感じる――自分ではない誰かの恐怖や殺意。それらすべてが松本を蝕んできた。
眠るたびに悪夢として蘇る“共鳴”の残像、何かを掴もうとするたびに震える手、過労に蝕まれた身体――そのすべてを抱えながらも、松本は被害者のためにこの力を使い続けていたのだ。
だが、それを気遣う者はいない。それどころか、その苦痛を笑い飛ばすかのような水嶋の言葉。そして、それに同調するような周囲の反応。それらが松本の胸の奥で、鋭利な棘となって深く突き刺さる。
(全員、殺してやろうか…)
左胸のホルスターに収められている拳銃で、この場にいる全員の脳天を打ち抜きたくなる衝動を、松本は必死にこらえていた。
「おーい、みんなぁ!」
突然、それまでその場にいなかった他の同僚が、明るい声を上げながら入ってきた。その手には、綺麗に包まれたフルーツの詰め合わせが握られている。
「以前、うちで解決した事件の被害者のご家族からだよ。感謝の気持ちを込めて送ってくれたんだってさ」
その言葉に、一瞬で捜査一課の空気が変わった。皆がざわめき始め、水嶋も冷笑を収めるように目を細めた。
「へえ、そいつはご立派だな」
もはや場の注目はフルーツに移っている。その隙をつくように、松本は何も言わずにその場を立ち去った。自席に戻ると椅子に深く腰を落とし、そこで自分を落ち着けるように大きく深呼吸をする。とにかく酸素だ。肺いっぱいに詰め込みたかった。それでも、内心に渦巻く怒りは消えない。
「……お前らに、俺の何がわかる」
周囲に聞こえないよう低く呟く。松本の目は机の上に広げられた書類に落ちているが、思考は別の場所にあった。
水嶋の言葉にも一理ある。これまでの“共鳴”はすべて、現場に立たなければ発動することはなかった。それが、今回の“共鳴”はこれまでとは異なる、場所に縛られない異質なものだった。松本は自分自身に疑念が湧く。
「本当に……現実なのか?それとも、俺の頭が壊れ始めているのか……?」
その疑問が、じわじわと脳内を侵食する。しかし、“共鳴”で感じた感情が、松本の疑念を打ち消した。“共鳴”の中で確かに存在した痛みや絶望、それは現実に起きた出来事だと松本は信じたかった。
「……これは現実だ。被害者がいる以上、俺が動かなきゃ……」
その信念だけが、松本の身体を再び動かした。机に残った資料を鞄に詰め込み、勢いよく立ち上がる。その目には疲労の影が浮かんでいたが、同時に消えない決意の光が宿っていた。
◀第一夜「深夜の捜査課」
第三夜「疑惑の矛先」▶
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