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鏡の中の正義 第一夜「深夜の捜査課」

鳴神警察署 捜査一課。殺人や強盗など、凶悪犯罪を専門に扱う部署。『夜の街』と呼ばれる鳴神の闇に挑む捜査官たちが集う最前線だ。一課のフロアは深夜の静寂に包まれ、蛍光灯が白々しい光を放っている。その光が無機質な影を床に落とし、漂う空気には人の気配よりも疲労の残り香が色濃く滲んでいた。

松本啓介は机に座り、スケッチに集中していた。髪は乱れ、疲れ切った顔には剃り残した無精ひげが影を落としていた。まつ毛の長い切れ長の目元が特徴的だが、その瞳に生気はない。長い捜査に追われているせいか、シャツの袖は腕まくりされ、ネクタイは緩く垂れ下がり、スーツのシワがその過酷な日々を物語っていた。

手元では鉛筆が小刻みに震えながら紙の上を滑る。その先に描かれるのは、“共鳴”で受け取ったある殺人事件の残像だった。

松本の頭には、被害者が体験した恐怖が鮮明に蘇る。黒々と生い茂る木々の群れ、足元に散らばる枯れ葉、何かが裂ける音、切実に誰かの名前を呼ぶ声。それらがまるで記憶の底から這い上がるように脳を侵食し、彼の鼓膜にこびりついていた。冷たい汗が指先から滲み出し、鉛筆を滑らせる。線が乱れるたび、小さく舌打ちし、描き直す。それでも、紙の上に形を留めることができるのはほんの断片だ。

「……くそ……」

声にならない呟きが漏れる。鉛筆を握る手が止まり、松本は机に突っ伏した。胸を締め付ける痛みが容赦なく襲い、被害者の恐怖や絶望が、自分自身の感情として体を苛む。

“共鳴”――それは、松本啓介が数多の事件を解決するために用いてきた特殊な能力だった。事件現場に立つことで、被害者や犯人がその瞬間に見たもの、感じたものと繋がることができる。それは彼を「天才捜査官」と呼ばれる存在に押し上げたが、代償はあまりにも大きい。“共鳴”した感情の残滓が徐々に心を蝕み、最近では肉体的な痛みや凄惨な事件現場のフラッシュバックが激しさを増していた。

「また残業か、松本」

冷たい声が静寂を裂く。背後から聞こえるその声の主を、松本は振り返ることなく理解した。水嶋亮介――鳴神警察署 捜査一課の課長であり、松本をことあるごとに挑発する男だ。常に淡々とした口調で放たれるその言葉には、どこか人を小馬鹿にした響きが混じっていた。

ゆっくりと足音を響かせながら水嶋が歩み寄ってくる。高級そうな黒のスーツに身を包み、シャツの襟元には淡い青色のネクタイが整然と結ばれている。短く刈り込まれた黒髪には整髪料が光を反射し、細部に至るまできちんと手入れされていることが伺える。

「お前のその能力、便利なのかもしれないがな……もう限界だろう。次は何を幻覚で見るつもりだ?」

机に寄りかかり、冷笑を浮かべる水嶋。その鋭い目には、見下しと嘲りが滲んでいる。松本は深い息をつき、視線を戻さないまま口を開いた。

「俺のことは気にしないでください。事件を解決するのが俺の仕事ですから。」

声には棘が含まれている。それを察しながらも、水嶋は笑みを崩さない。

「ほぉ、相変わらずだな。ただな、事件解決に幻覚を頼る捜査官なんて、俺から見れば足手まといもいいところだぞ?」

刺さる言葉に、松本は拳を強く握った。反論しないのは、それが部分的に事実であるからだ。最近の“共鳴”は異常だった。映像や感情が以前より鮮明で、それらが現実と幻覚の境界を曖昧にしている。

水嶋は鼻で笑い、立ち去る。その背中を見送る松本の胸には、冷たい怒りが蓄積されていた。言葉にはならない感情が、体の内側をじわじわと侵していく。

突然、鋭い頭痛が松本を襲った。額を押さえ、椅子にもたれかかる。その瞬間、視界が歪み、脳内に激烈な映像が流れ込む。

暗い部屋、壊れた窓ガラスから差し込む月明かり。床に転がる血まみれのナイフ。泣き叫ぶ子供と女性の呻き声――その鮮烈な光景に、松本は息を呑んだ。

「……なんだ、これ……?」

この“共鳴”は、これまでのものとは違っていた。現場にいないにも関わらず、映像が流れ込む。さらに、映像の状況から判断するに――それは松本が担当するどの事件リストにも存在しないものだった。

冷や汗が額を伝う。松本は椅子から立ち上がり、ふらつきながら机に手をついた。

「……これは……何なんだ……」

異質な“共鳴”の意味を理解できないまま、松本は捜査課を後にする。背後に残るのは、白い蛍光灯の光と、水嶋の冷笑が放った空気の残響だけだった。


第二夜「独自捜査の開始」▶


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