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鏡の中の正義 第四夜「第四の人物」

松本の指は、スマートフォンを掴む力で白く強張っていた。通話ボタンを押し続ける指先に宿る焦燥感。何度かけても、受話器越しには無機質な呼び出し音だけが繰り返される。

「くそっ……出ろ、水嶋!」

吐き捨てるように呟き、何度目かのリダイヤルを試みるが結果は同じ。

“共鳴”で刻みつけられた光景が、脳裏に焼き付いて離れない。暗い部屋、泣き叫ぶ子供、呻き声を上げる女性、そして振り返る水嶋。その顔には、まるで松本を挑発するような冷たい笑みが浮かんでいた。

「やってやる……水嶋、絶対に止める!」

握りしめた拳から、冷えた汗が滲むのを感じる。その決意を燃料に、松本は車道へと駆け出した。いつの間にか空は厚い雲に覆われ、灰色の薄明かりが街を包んでいる。昼間のはずなのに世界は色を失い、彼の足音だけが妙に鮮明に響いていた。路肩に停まるタクシーを見つけ、ドアを叩くようにして開けると、松本はその中へ滑り込む。

「鳴神警察署まで、急ぎで…!」

短く冷たい指示に、運転手は一瞬眉を寄せたが、何も言わずアクセルを踏む。車が発進し、窓越しに街並みが流れ去っていく。無機質なビル群も、人影がまばらな通りも、どこか異様な冷たさをまとっていた。

鳴神警察署に到着すると、松本は捜査一課に向かって早足で廊下を進んだ。昼どきの署内は珍しく穏やかな空気に包まれている。同僚たちはデスクで談笑し、書類を手にしながら軽い冗談を飛ばし合っている。松本の耳には、その穏やかな声が遠い世界のことのように感じた。

自分だけがその世界から孤立しているような感覚だった。それが、松本の苛立ちと焦燥をさらに煽る。

「松本さん、大丈夫か?顔、真っ青じゃないか」

捜査一課に入った松本に対して、被害者家族から差し入れられたフルーツの皮を剥きながら、呑気な声で話しかけてくる同僚。手にしたナイフの鈍い輝きが、松本の視界の端を掠めた。

「……水嶋はどこだ?」

松本は一瞥もせず、低く問いかける。突然現れて上司を呼び捨てにした松本に、同僚は驚きに目を見開き、フルーツの皮を剥く手を止めた。周囲の雑音が一瞬にして引き締まる。

「水嶋課長?いや、今日はまだ見てないけど……どうかしたのか?」

水嶋は病的に几帳面な性格で知られていた。朝はいつも決まった時間に出勤し、まずはデスクの整頓から始める。その後、部下たちの進捗を確認しながら、一日の予定を淡々と消化していく。昼どきには必ずコーヒーカップを手に、自分の席で静かに報告書に目を通している姿が目撃される。

しかし、今日はその「当たり前」が崩れている。松本は思わず時計を確認した。正午前後――いつもなら水嶋がデスクに腰掛け、書類に目を通しているはずの時間帯だ。それなのに、机は整然としたまま無人。

「いないだと……?この時間帯に?」

松本の声は、驚きと焦燥が交じり合って低く漏れた。几帳面さを体現するような水嶋が、ルーティンを外れる。それが何を意味するのか――考えるほどに胸の奥で不安が膨らんでいった。

松本は何かを振り払うように肩を揺らし、水嶋のデスクへ向かった。フロアの最奥に据えられたその机は、他のどれよりも整然としている。乱れた形跡は一切ない。だが、その無機質なまでの秩序が、かえって松本の疑念を深めた。

「隠している……、必ず何かある……」

松本は手を伸ばし、ためらうことなくデスクの引き出しを片っ端から開けた。無造作に開けられた引き出しから、資料や小物が乱雑に床へとばら撒かれる。ペン、メモ帳、名刺入れ――その中に、一枚の写真が現れた。

「おい、何やってるんだ!」

背後から声が飛ぶ。だが、松本は振り返ることなく、その写真を拾い上げた。その手は微かに震え、目は写真に釘付けになる。そこには、水嶋と妻、そして幼い娘が並んでいる――まるで絵に描いたような幸福な家族の光景だ。その笑顔は平和そのものだった。だが、松本の脳裏では“共鳴”の映像が重ねられる。暗い部屋で泣き叫ぶ子供と呻き声を上げる女性。

「……あの女性と子供……水嶋の家族だったのか……!」

その瞬間、松本の唇が微かに引きつり、小さな笑い声が漏れた。それは徐々に大きくなり、やがて甲高い笑い声へと変貌する。

「証拠だ……これが証拠だ!俺は間違っていなかった!」

その狂気じみた叫び声は署内に響き渡り、場の空気を一瞬で凍らせた。松本の笑い声は甲高く、不協和音のように耳障りだった。同僚たちは目の前の異常な光景に息を呑み、誰一人として言葉を発せられない。ただその場に立ち尽くし、徐々に後ずさっていく。

松本は写真を握りしめ、目の前で掲げた。

「見ろよ、この写真……これだ!俺が見た“共鳴”の映像そのものだ……やっぱり水嶋だ、やっぱりあいつが……!」

その瞳には焦点が合わず、瞼の奥には異様な光が宿っていた。狂気と確信の狭間で揺れるような、不気味な輝きだった。

「何が証拠だ!」

唐突に同僚の怒声が炸裂した。その声には震えが混じりながらも、必死に現実を取り戻そうとする気迫が込められていた。

「それはただの水嶋課長の家族写真だ!何が証拠だ、どこにもそんなものはない!」

だが松本はその言葉を意にも介さない。握りしめた写真をさらに力強く掴み、笑い声を抑えるどころか、ますます高めていく。同僚の顔には恐怖と苛立ちが浮かんでいた。

「お前は……正気じゃないぞ!」

その声は明らかに震えていた。松本は静かに視線を周囲に巡らせ、同僚たちの怯えと警戒が入り混じった視線を真正面から受け止める。

「お前ら……邪魔するなよ」

さっきまでとは別人のように低く冷え切った声で松本が呟くと、その手がスーツの胸元へ静かに伸びる。ホルスターの位置を正確に掴むその動きに、同僚たちは瞬時に固まる。

「やめろーーー!松本ぉ!!」

誰かの声が裂けるように響いたが、松本の動きは止まらない。指先が拳銃の輪郭をなぞり、引き抜く寸前の動作を見せた瞬間、室内の緊張感が一気に頂点に達する。同僚たちは目を見開き、次に何が起きるのか息を呑んで見守るしかなかった。

「止められるもんなら……止めてみろよ」

松本の唇に浮かぶ微かな笑みは、薄氷のような不気味さを漂わせていた。その目には既に覚悟の色が宿り、彼が踏み出す一歩が全てを引き裂く前兆に思えた。

「松本!いい加減にしろ!」

怒声が鋭く響き、同僚の一人が前に出た。その手にはフルーツナイフが握られ、刃先が激しく震えている。

「お前、正気じゃないぞ!」

だが、松本はまるで動じない。むしろ冷たい瞳でそのナイフを見つめ、胸のホルスターから離した手を静かに伸ばすと、その刃を素手で掴んだ。鮮血が滴り落ち、床に暗い染みを作る。

「どけよ」

掴んだナイフを取り上げ、松本が低い声で呟く。その迫力に、同僚は足をすくませ、最後には道を開けるしかなかった。そのまま松本は写真をスーツのポケットにしまい、部屋を後にした。

外に出ると、松本は再びタクシーを捕まえ、水嶋の自宅の住所を告げる。車内に効いた過剰な冷房で、汗で湿った松本のシャツが肌に張り付き、全身がぞくりと冷たくなった。

冷えた頭に、ふと疑問がよぎる。これまで“共鳴”で受け取った“視界”の映像には水島とその家族、3人全員が映っていた。水嶋、怯える妻と子供。彼ら3人が同じフレームに映り込んでいる。松本の眉間に深い皺が刻まれた。

「じゃあ……“共鳴”で俺が見た“視界”の主は……誰だ?」


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