第一回:日本の国防を呼び覚ます「江川英龍」 [武心の源流・幕末日野篇]
幕末の時代に京の都で華々しく大暴れした新選組。東日本の若手剣士たちの集まりに過ぎなかった新選組が大活躍できたのは、彼らの故郷である多摩地域の人たちの経済的な援助があったから。
中でも日野宿の名主であった佐藤彦五郎という人物は、新選組局長・近藤勇と契りを結んだ義兄弟の間柄、副長・土方歳三の姉の夫という人間関係だけでなく、自らも天然理心流の免許皆伝の実力を持ち、日野の動乱を鎮圧してその治安に大きく貢献した人物です。ただスポンサーとして金を出し続けただけではなく、自分自身も地域の治安向上のために動く、行動派の名主だったのです。
新選組は現在、いろいろな時代劇や漫画の題材に使われて非常に人気ですが、最後まで幕府と運命を共にして新政府軍から敵視された存在であり、明治維新以降にその名誉を回復させたのも佐藤彦五郎の尽力の賜物でした。
激動の時代の中で地域と新選組のために力を尽くしたその生き様からは、現代のビジネスマンも忘れかけている心意気や生き方がいろいろいと見つかるのではないでしょうか。
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新選組の活躍と並行して幕末時代の多摩地方を描いていく「幕末日野篇」、いよいよスタートです!
▼歴史発想源「武心の源流・幕末日野篇」〜佐藤彦五郎の章〜
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【第一回】日本の国防を呼び覚ます、江川英龍
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■いざという時の緊急避難ルート・甲州街道
時は、江戸時代。
関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍となった徳川家康がやがて豊臣政権を滅ぼしたことによって、江戸幕府が日本の政治を司るようになります。
政治の中心が、これまでの京都や大阪から東京に移ったということですね。
今でこそ東京は世界屈指の大都会ですが、当時の江戸はようやく関西から政治の中心が移ってきたばかりで、関西から見るとまだまだ発展途上の田舎でした。
江戸幕府は開府後すぐに、江戸の日本橋を起点として全国に向けて街道整備を始めます。
今で言えば新幹線や高速道路を整備していくようなもので、江戸と全国各地を結ぶことで、江戸を中心にして経済や物流の行き来を活発化させることになり、さらには後に参勤交代も始まることになるので、街道は政治的にも生活的にもとても重要なインフラになっていきます。
全国に張り巡らされた街道のうち、特に中心となった5つの街道を「五街道」と呼びます。
まず最初にできたのは、江戸の日本橋から京都の三条大橋までを結び、神奈川県や静岡県を通る「東海道」です。
今で言えば真っ先に東海道新幹線から作ったというようなもので、政治の中心である江戸と首都である京の都を、まずは最初に結んだのです。
次に、徳川家康を祀る日光東照宮のある日光(栃木県日光市)と江戸とつなぐ「日光街道」が1636年に整備され、さらに日光よりも北の東北地方へと続いて行く「奥州街道」が1646年に作られました。
その次に1694年、東海道の裏ルートとして、長野県や群馬県のほうを通る「中山道」(なかせんどう)が整備されます。
そして五街道の最後の五つ目の街道として、1716年に整備されたのが、江戸から八王子、甲府を通る「甲州街道」です。
東海道は静岡県や神奈川県の海沿い、中山道は長野県や群馬県の内陸部を通りますが、甲州街道はさらにその間、多摩地域や山梨県を通るルートです。
今の中央自動車道や国道20号線にあたり、信濃国(長野県)の下諏訪で中山道に合流します。
それにしても、江戸と京都を結ぶ東海道、その裏ルートとして作られた中山道があるのに、さらにそのまた裏ルートにあたり、長野県で終わってしまうというかなり短い街道がわざわざ新たに作られるというのは、不思議だとは思いませんか?
なぜ、そのような短い区間に主要街道のひとつが新たに加わったのでしょうか。
それは、「脱出ルート」だったからです。
江戸時代、各地には諸藩がありましたが、その中には徳川家の親族である親藩大名、戦国期から徳川家の重臣の家柄だった譜代大名、そして戦国期には徳川家の臣下ではなく関ヶ原の戦いの時に味方したことで許された外様(とざま)大名がいました。
外様大名はそれぞれ領内を守るための軍隊を持っていますが、外様大名はやっぱり元々は徳川家にとっては部外者なので、いつ裏切って江戸に攻めてくるか分かりません。
そこで、万が一江戸城が外敵によって攻め落とされた時、徳川将軍家はまずどこに逃げ延びるべきかというと、想定されていた避難場所は甲斐国(=山梨県)にあった甲府城でした。そこが緊急時の代替庁舎として考えられていたのです。
そのため、甲府は外様大名が治めるのではなく、いわゆる天領(てんりょう)と呼ばれる江戸幕府の直轄地となっていました。
それでは、江戸と甲府の中間にあたる多摩地域は、誰が治めていたか。
このあたりも藩や大名といったものは存在せず、江戸幕府の直轄地だったのです。
つまり、江戸から甲府に至るまでのルートは全てが幕府の直轄地であったため、江戸幕府は自分の管轄内の中に甲州街道という脱出ルートを作っていたことになります。
さらに、この脱出ルート沿いは全て幕府の管轄にあるわけですから、もし甲府城に将軍家が逃げて来た後も、このあたりの武力を結集することで再び江戸城を奪還するための仕組みを作っていたのです。
東海道や中山道が各地の諸藩の参勤交代や物流のために作られたのに対して、甲府街道というのは幕府の緊急時の都合のために作られたルートだったのです。
その街道沿いの地は幕府直轄地ですから、この地域に住む人たちにとって「お殿様」と言えば藩の大名ではなくて、江戸幕府の将軍のことを指していました。
それを考えると、多摩地域から新選組のような佐幕の志士が生まれてくるのも、今の東京都がなぜか多摩地域のほうまで横長いのも、説明がつくような気がしてきませんか?
【教訓1】トラブル時に備えて緊急ルートを用意する。
■外国からの脅威の時代に現る、スーパー代官様
全国各地の藩は藩主である「大名」が治めていますが、幕府の直轄領は「代官」という役人が治めていました。
では、現在の東京都西部にあたる多摩地域の統治を担当していた代官は、どこにいたでしょうか?
「そりゃ、現在の東京都西部なのだから、現在の東京都庁みたいに、同じ東京都内の江戸にいたんじゃないの?」と現代人は思いがちですが、違います。
多摩地域を治めていたのは、……
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