小説・「塔とパイン」 #20
バベッタと初めて出会ったのは、そう、市役所だ。右も左もわからない中、渡欧してドイツに来た。来ただけではダメで、住民となるには役所に届け出をしなけりゃならない。
前情報では「英語が読めれば何とかなる。」はずだったけれど、期待外れだった。英語での案内などなく、文字はほぼドイツ語だ。特段ドイツ語ができるわけでもなかった僕。
「全く、わからない・・・」
どこにいって、なにをすればいいのか、なにがどこにあるのか、さっぱりわからない。かろうじて、トイレの場所だけはわかった。
右往左往しているところに声をかけてきたのが、そう。彼女 ー バベッタだ。
「Hai!どうしたの?何か困ったことあって?」
「手伝いが必要なら言ってね」
ブラウン掛かった肩まで伸びたウェーブ髪に、黒縁のメガネをかけ、目をいっぱいに開き、人懐っこい表情を浮かべながら、まじまじと僕を見つめていた彼女。シンプルなシャツとデニムパンツのいでたちに好感を覚える人は少なくないだろう。
仲良くなった今でも、彼女には言っていないけれど、あの時は本当に彼女が天使に見えた。そして言いしれない不安と恐怖が解けて落ちていくような感じも覚えている。
「あ、ああ、ええと・・・」
カタコトの英語で何とか彼女に話すと、「OK!わかったわ、じゃぁ、私についてきて!」
異国の地に来ていきなり知らない人に話しかけられて、半信半疑ながらもついていく。だまされるのでは?というのも頭をよぎったけれど、現状を考えると自分で問題を解決することはできそうになかったから、彼女を信じてついていくしかなかった。
というよりは、ほとんど信じていたというのが正しい。
彼女のサポートのおかげで、手続きは滞りなく進めることができた。仮の身分証明書が渡され、これで僕も晴れてドイツ市民となった。身分証は後日、僕のアパートに郵送されてくるらしい。
「あなた、日本の人だったのね。コンニチハ」
「わたし、ちょっと、ニホンゴ、勉強してるの」
全てを終えて、市役所から出たとき、バベッタが意外な言葉をかけてきた。数日前にもう聞くこともないと思っていた発音を聞くことになったことに少し戸惑いを覚えて。