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「悪いのは全て●●のせい」にしない
「じぶんは悪くない、悪いのは全部●●のせいだ!」っていうセリフ、過去も、今日も、そして今、わたしの記事を目にしているこの瞬間も、目にする耳にするくらい、頻繁です。
そういう風に言いたくなる、思いたくなる気持ちはよくわかります。上手くいかないときは、何かのせいにしたくなるもの。
わたしも聖人君子でもなければ、悟りを開いた人でもないので、「このやろう」と思ったり、「お前のせいだ!」って思ったり言ってしまったり、ということはよくあります。だって、人間だもの。
ただ、うまくいかないことは「全部〇〇」というのは果たして適切でしょうか?
もう、だいたい予想がついていると思いますけど、「全部」というのは語弊がありますよね。
例えば、あまりいい例じゃありませんけど、交通事故でも、「0:100」で相手が100%悪い、過失があったと認められるケースは滅多になく、被害側も若干の責任が問われることも少なくないとか。
ことが起こった直後は、お互い冷静ではいられないので「相手が悪い!」となってしまいがちですけど、少し時間をおいて冷静に考えてみると、「あ、この点に関しては、こっちも落ち度があったかな・・・」って思えることもありますよね。
この気づきが大事なんです。
コレに気づかないと、その後のわたしたちの成長はないです。未来もない。
客観的に見て、相手の方が大部分、落ち度や過失があるとしても、「本当に自分としてはあのとき、何かできることはなかったか?」って考え、振り返ってみると、些細なことかも知れませんけど「原因」が見えてくることがあります。
この「原因を見逃さない」ためには、気づきが必要です。
ハナっから、「相手が悪い、自分は絶対に悪くない」それを譲らなければ、もうそれ以上、成長はできないでしょう。
事故にしても、失恋別離にしても、仕事にしても、なんでもそうだと思うんですけど、「他にやりようがなかったのか?」っていうのがないと、次に生かすことはできませんよね。
そう、わたしとしては、次に生かすために「相手に全責任を押し付けない」というスタンスが大事だと思っています。
逆に相手が「100%、わたしが悪い」と糾弾してくるなら、100%悪いなどないと、論破してもいいですけど、長く関わるのがダルいので、ある程度渡り合ったら、フェードアウトしていきます。
逃げるのか?なんていう挑発に乗る必要はありません。建設的な話し合いができない時点で、議論する必要、ありませんからね。
相手に何かを期待するのではなく、己の思うところを粛々とやっていく、それ以上やる必要はありませんよね。
過去を引きずるんじゃなく、起こった出来事を糧に、今日より明日、明日より明後日、数ヶ月後、数年後に、もっと幸せになっていればそれでいいんですよ。
モノを減らし、そういう煩わしい人から離れて、良くなればいい。
だだそう書いてはみたものの、なかなか上手くいかないのが、残念なところなので、まだまだ修行が足りないんだろうなぁ、と感じています。
それでは、また。
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