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流して、流されて、回して、回されないといつか関係は渇いてしまうのだろう
あ~わかる~!! と、久しぶりにめちゃくちゃ共感したnoteを読んだ昨日。感想的なことを書こうかと。
そのnoteは、ダイヤモンド社の編集者、今野さんの「最後の返事」。
関係の終わりはいつも「返事がない」から始まる。
序盤のこの一文だけで、「あ~」となった。
それは、”相手から返事をもらえなかった”記憶と、”私が返事をしなかった”記憶の両方が、レーザーポインターでピピっと差されたからだった。
というか、そうなるのは私だけではないのではと思うけど、どうなんだろう。
たとえ怒りや反論や異議であっても、「返事をすること」そのものが関係を継続する意思の表れである。一方、普段は仲の良いふたりの間で、しかし特定の話題については返事がなかった場合、「その話についてはあなたとするつもりがない」という意思の表れである。
”相手から返事をもらえなかった”記憶は、使いすぎた鍋裏のように錆びついている。
時には「既読」がついたまま取り残されたメッセージ。時には「既読」すらつかないまま、誰にも届かず空中霧散したメッセージ。
いったい何が悪かったのだろうか?
恐らく、私が送った最後のメッセージは決め手ではないと思う。そういう気持ちはじわじわと蓄積されていくものだからだ。
きっと、もっと前の段階で私のほうが張らなくていい伏線を張ってしまったんだろう。それも無意識に。
そして最後の最後で無意識伏線を回収した。私にとっては“返事がこない”という回収だったかもしれない。
でも、相手にとっては時限爆発だったのかもしれない。
導線がちりちりと燃え続けているにも関わらず、そのことに気づかなくて最後、相手の中でそれは爆発した。爆発後の野原に遺されたのが、私の最後のメッセージだった、というわけだ。
そして、この「返事がないという返事」は、受け取った側にこそ深く刻まれる。返事をしなかった側にとっては、その決断は一瞬であったり、うっかり返事を忘れただけであったかもしれない。しかし、返事をしなければもう終わりなんである。
”私が返事をしなかった”記憶は、クローゼットの奥、クリーニングから持って帰ってきたビニールがかかったままのスーツのよう。
普段はまったく思い出さない。覚えてすらない。そもそも「返事してないよな」とも、「あれ? 返事したかな?」とも考えない。
いや、考えないというのとはちょっと違くて、その考えにすら至らないというのが正確な気がする。
だけど何かがあったとき、例えば友達と話していてその人の話題が出たときとか、返事を怠ったときと同じ状況に自分が立たされたときに、初めてハッとするのだ。
「あ、そういえば私、あのとき返事してなかったな……」と、思い出す。
慌ててメッセージを見返しても、それは何カ月も前、下手したら何年も前だったりする。遅すぎた。ハッとするのが遅すぎたのだ。
今、返事をしなかったあれやこれやを「そういえば」と思い出したのも、今野さんのnoteを読んだから。
ああ、ごめんなさい。
私はずるい。
もらえなかった返事のことを錆としてずっと自分の中に沈殿させていた。「どうして返事をもらなかったんだろう」と子供のように嘆いて、「時限爆弾だったんだ……」なんて言って。
でもそれと同じくらい、私だって返事を怠り、滞らせ、そして枯らしてしまっていたのだ。
会話は水だ。つまり、メッセージのやり取りをする私は源泉地であり、流れを作る水路でもある。
流して、流されて、回して、回されないといつか関係は渇いてしまうのだろう。
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