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通ってきた道を示すように、ぽつ、ぽつ、ぽつとnoteをおく

もし明日私が死んでしまったら、このnoteが遺品として家族に渡るんだろうか。
とても気の利いた優しい誰かが、「娘さん、こんなこと書いてましたよ」とか言って全部印刷して、ファイリングして渡されちゃったりするんだろうか。

なんてことを考えたのは、今日、関わらせてもらってる会社の月初めの全社ミーティングがあったからだ。

各事業部の先月の動きと、来月の目標の報告。これからの目標のところで「〇〇という施策を考えています」と報告者が話した。

それに対して「その施策をしたことで、どのくらいの効果があるのか見立てはありますか?」と質問があがった。
「例えば、それをすることで、何人の集客が見込めるのか。それはこれまでの施策の結果から、完全でないにしても、予測が立てられると思う。1人の集客のために、何人に、どういう方法でアタックしなきゃいけないかは、これまでから見いだせるんじゃないかな」との意見があがった。

それを聞いて私は思ったのだ。

ああ、そうか。この会社には私が知らない何十年があるんだ。

関わらせてもらえるようになったのは、去年の9月から。それ以前にも、私が知らないだけで、この会社には歴史がある。そんな当たり前のことに、その一言で気づかされた。

たぶん、これまでどうにか施策を打ってきた時期もあるだろう。どんな結果がでるかわからないから、冒険者の気持ちで、真っ暗な道を汚れながら進んできたのかもしれない。
でも今は、それがちゃんと通れる道になったのだ。あのとき冒険者として道を開拓したから、今そこは歩ける道になってる。それが確かな結果として、実績として、懐中電灯も手にすることができた。
これから真っ暗な道に向かうとき、その懐中電灯で前を照らせる。「お、きっとここはこうなってる気がするぞ!」と、懐中電灯のおかげで前を照らせる。
真っ暗な道を歩かなくていいのは、懐中電灯があるからで、その懐中電灯があるのは、真っ暗な道を開拓してきたからで……

そんな歴史を、朝から感じたのだった。

と、同時に私はその、施策を繰り返して、結果が出て、といった過去に確かにあったみんなのあの時には触れられないことも感じた。
私が入る前にあったのその時間には、みんなで培ってきたその時間には、私はもう立ち入ることができない。道を作って、懐中電灯を手に入れたその瞬間を体感することはできない。それがどうにも悲しくて。それがどうにも泣きたくて、もっと早く出会っていたかったなあ、と思った。

だけど、それは同じだけ私にもある。

この会社と関わる9月からの私だけをみんなに見せているけれど、それよりも前、ぼろぼろになっていた私がいたことをみんなは知らない。ぼろぼろの私を救ってくれたのがこの会社だということも、みんなは知らない。なんとなくは話しているけれど、ちゃんとは知らない。

そうやって歴史は繋がっていくんだろうな。

私が知らない歴史と、私が関わって一緒に作れた歴史。みんなが知らない私だけの歴史と、みんなが関わってくれた私の歴史。

自分が歩いてきた道は、隣に誰かの道があったときもある。真っ暗な中、自分の道だけしかなかったこともある。交わって、交点ができたこともある。Y字路になってて、捨ててしまった道もある。

そして、今。私はその道に、自分がたどってきた証かのように毎日石を置いている。ぽつ、ぽつ、ぽつ、と石を置いている。その石が、このnoteだ。これが私の歩いてきた道だよ。これが私が作ってきた歴史だよ。

だからもし、明日何かがあって私が死んでしまったら、その石をみんなが見るのかな。このnoteを見るのかな。「こんなこと書いてたんだ」とか言われちゃうかな。みんなで私の言葉を見るところを想像するとちょっと恥ずかしいな。照れちゃうな。嬉しいな。


って、全然明日も元気に生きていきますけどね!(笑)

”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。