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1億2534万人分の32人分の1人

特別なことは何もない。至極普通のありきたりな話だと思う。一言で言えば、密度の濃い半年間だった、で済んでしまう話かもしれない。他の人から見たらそれだけの話かもしれない。

だけど、ありきたりな話じゃないとも思う。

あと少し暖かくなれば、アスファルトの地割れから生命力のある小さな花が咲く季節がやってくる。そういう花は、私が気づいていないのも合わせれば日本全国、どこにでも咲いているだろう。家の前の地割れにも、会社近くの地割れにも、乗り換え駅の出口付近の地割れにも、気づいてないだけできっとあるだろう。

でも、私が認知した花こそが、アスファルトの地割れから咲いた、生命力を感じさせるたった1輪の花だ。他の花があろうとも、私がそれらの存在を知らないのだから、それらはないのと同じということ。自分が見つけた、自分が気づいた花だけが、私にとっての生命力のある花だ。

私にとってバトンズの学校はそういう場所だった。

今さっき、ようやくバトンズ・ライティング・カレッジ1期が終了した。2021年7月から始まったバトンズの学校。たった半年間、年単位で通う小中高大と比べると短期間もいいところ。そんな学校を、私は卒業した。

バトンズの学校は、その名の通り、違和感なく確かに学校だった。セミナーとか、ライティング講座とか、ゼミとか、そういうちょっと怪しさを感じさせる類の呼び方ではなくて、やっぱり「学校」が一番しっくりくる。
その「学校」というちょっと不思議な響きを、私を含めた32人の生徒はみんな、違和感なく受け入れていたように思う。そのことが何よりも居心地がよく、ここで精一杯学んでいいんだ、と思わせてくれた。

講義の教室は、原宿にあるダイヤモンド社のカンファレンスルームだった。月に1回、土曜日にそこに行くと、私はいつも思っていたことがある。

ここは、ほんとうに学校だなあ、と。

小中高大と、私がこれまで過ごしてきたあの空間によく似ていた。いや、あの空間よりもはるかに透明度高く上質で、ぴいんと張りつめた静けさを感じると同時に、ごうごうと燃える熱があったように思う。

どうしてそんなふうに思うのか。

それは私が自らの意思で見つけ出し、応募し、課題を通過して入学できた学校だからだ。学びたい、この学校に参加したい、その衝動にかられた自分が、衝動をエネルギーにしてその門まで手を伸ばしたからだ。
でも今思えば、比べようもないことだけど、私はきっと火がつくのは遅かったんじゃないかと思う。もっと早い段階で衝動の暖炉に薪をくべ、炎をぼうぼうと燃やした人もきっといるはずだ。もっと長い時間をかけて課題原稿とに向き合った人もいるだろう。それに比べて私は。

そんなふうに卑屈になってしまうぐらいには、私は遅かった。でも、私だって、そのときできる自分の100点の原稿を出した。「これならイケる、いや、いきたい」、そんなふうに自分で思える原稿を私だって出したのだ。

状況は違うかもしれないけれど、同じように集まった32人の生徒のみんな。
「透明度高く上質で、ぴいんと張りつめた静けさを感じると同時に、ごうごうと燃える熱」を作り出していたのは、生徒ひとりひとりだった。

講義を受けてるときも、課題に向き合うときも、書くことに向き合うということは、一貫してずっと静かだ。でも、ずっと言葉がうるさいのだ。目の前に文字が表れて意味になる。意味が繋がって言葉になる。言葉が増えて原稿になる。何も音はしないし、何も吐き出していないのに、ずっとうるさいのだ。

ひとりひとりが、心の蒸気機関車の機関室にいて、石炭をスコップですくい、ただひたすらに「火室」に投げ入れる。動きが止まらないように、自分の気持ちが消えないように。ただひらすらに蒸気を出して走り続ける。ときどき投げ入れる石炭の量が少なくなってしまったこともあるけれど、それでもとにかく動くことをやめなかった。

ぼーっと蒸気があがる。そのとき初めてぼーっという音を聞く。

バトンズの学校は、言葉にあふれていた。たぶん、どこの学校よりも言葉があふれていた。だけど、それがエネルギーになって、かたまりになって、うねり、みたいなものになっていたと思う。

そしてそのうねりは、たった一人の凄腕ライターから生み出されていた。蒸気機関車の進路を「学校」にする分岐器を動かしていたのは、たった一人の人だった。

この半年間、何度も「よかった」と思った。何度も「私、ちゃんとやれているかな」と思った。頭を抱え、言葉を抱え、ずぶずぶと落ちてしまいそうなときもあった。でも、もし。そのとき誰かが現れて、「いいよ、離しても。沈んじゃうから離してもいいよ」とそう言われても、きっと私はそうしないだろう。

だってこれは、私が選んだ、私が伸ばした手だ。私が抱え込んだ言葉だ。
誰にだって譲らない。誰に何を言われたって離したりしない。したくない。

特別なことは何もない。至極普通のありきたりな話だと思う。他の人から見たら「何かをしていた」それだけの話かもしれない。

だけど、あきりたりな話じゃない。

日本の人口1億2534万人がいて、その中から32人が集まって、そのうちの1人が私だった。

全然、ありきたりな話じゃない。



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たなべ
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