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「自分の一部を千切って見せる」ような話
自分の近況とか、誰それに何が起こっているとか、そういう人間関係の話よりもするべき必要があって、誰とでもできる天気の話よりも、する必要のない話、というのが確かにある。
一見無駄そうに見えるそういった話はその実、意外と自分の感性や価値観、考えの道筋そのものを辿るような話であったりする。
つまり「自分の一部を千切って見せる」ような話であるということだ。
幸運なことに私は、たった一人と会うたびにそういう話ばかりをしている。
3ヶ月に1回ずつ会っては、「自分にとっていちばんの褒め言葉はなにか」「家に遊びに来た友達にされたら嫌な自分の禁じ手」「もし自分が音楽フェスを主催するとしたら」「人生でいちばん嬉しかった出来事」「友達の家でこっそりしてる気遣い」といった話ばかりをしている。
きっとはたから見たら、「何の話?」と思われるだろう。
でも、私たちの関係にだけ、それらの話は信じられないぐらいの意味を持っている。お互いの心意気や心臓の一部、脳皮質の1枚を切り取って見せ合うような感覚だ。
自己申告のように自分の気遣いや思いやりを吐き出し、私はこういう人間ですとプレゼンし合うようなその時間。私たちはずっと“ 誰か ” の話よりも、“ 自分たち ” の話をし続けているのだろうなと思う。
会うのがたった数時間だったとしても、とにかく千切っては見せ、切り取っては渡し、咀嚼し合う。
私たちの関係のすごいところはもしかしたら、そういう話をできる、ということもそうだけど、「そういう話を差し出すことに怯えがない」ということの方だと思う。
私たちは、千切って見せた自分自身をジャッジしない。良いも悪いもない。よかったもダメだったもない。
ただただ、「ああ、千切ったんだね。ありがとう」なのだ。いや、「ありがとう」と言うことも少ないかもしれない。感謝してほしくてそうしたわけじゃないから、ある意味では感謝も相手を惨めにしてしまうこともあると知ってるからだろうな。
だから、話をしていても私たちはずっと無色透明だ。
怯えることもなく自分を千切っては相手に見せ、それについて話をしたあとに、少しだけ良い方向に形を変えたその破片を、また自分の中に戻していく。
そうやって、もともとの自分と、相手のエッセンスがプラスされた私たちはもう、少しだけ同じものでできているのかもしれないなと思う。
一体化、一体感ってこういうことなんだろうな。
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