うまくできなかったときがあるから、私は今の私がけっこう好きだ
私は、今の自分のことがけっこう好きだ。
こうして毎日noteを更新してることも偉いなあ、と思っているし、毎朝通勤中に本を読む時間を確保してることもすごいなあ、と思っている。
会社にいても、なんて立派なやつなんだ、と自分自身に思うことがあるし、今日は特にそういう日だった。
私は今日の業務を、笑いながら「これもやるのかあ」ぐらいの気持ちでこなしていた。その様はまるで、田舎の畦道を歩く小学生がだらだらと家に向かう夕方のよう。転んだとしても、「そういうこともあるさ」と鼻水垂らしながら笑える、そんな自分だった。
だけど、それを見ていた周りの人からすると「え、たなべさんそんなことまでしてるんですか?」「いや……ほんと、お疲れ様」「また、やらされてるの? 断ったっていいんだよ」というような始末だった。
憐れまれていたし、同情されていた、のだと思う。
私としては、「まあ、いいかな」と思っていたことだったし、何より、そんなふうに思える自分をかっこいいと思っていた。
いや、正確には、そんなふうに“思えるようになった”自分のことをかっこいいと思っていた。
周りから同情された目線を送られても、能天気に過ごす。過ごせる。自分の気持ちとしても、「仕方ない」じゃなくて、「OK!」という気持ちでこなす。こなすことができる。できている。
いやあ、これはほんとにすごい。いい私だ、なんて思う。
だって、それまでの私はずっと、全部がくちゃくちゃに一つだった。
悲しいも、痛いも、辛いも、大変も、辞めたいも、全部が磁石に反応する砂鉄のように一緒くたになってくっついていた。
もし同情なんてされたら、それも合わさって灰色の砂鉄はどんどんどんどん大きくなった。「そうだよね、私がしてるのおかしいよね」と周りの意見に流されて、勝手に悲しくなって、そして辞めたくなってた。
どこか一つが反応すれば、もう一方も、もうもう一方も反応する。切り離すことが難しくて、でっかい塊みたいな不安定を抱える。
私の暗い側の感情はずっと、点じゃなくて、線で伝線していた。繋がっていた。切り離せないことが、私をどろ沼にはめていった。気づくと、自分が増やしたのか、勝手に増えたのか、はたまた周りに増やされたのか、どうしてそんなにまでなってしまったのかわからない気持ちに押しつぶされていた。
ずっと、そんな感じだった。私は私のことを、全然好きになれなかった。
だけど今は、そうじゃない。そうじゃない自分になれたのだ。気持ちの一つ一つが離れて、一個ずつの磁石になっている。
悲しいけど大変じゃないとか、辛いけど悲しくないとか、そういう分け方ができるようになった。私にとってこれは、ほんとうに大きな一歩だった。長い長い一歩だった。
うまくできなかったときがあるからこそ、うまくできている今の私が、私はすきだ。
いけいけ私。もっと能天気に、笑ってる私がすきだよ。