「いい夏にしいね」と言われた夏の日 #かくつなぐめぐる
ずっとそこにいると思っていた人が、なくなってしまった経験はあるだろうか?
そう書き始めた瞬間、ベランダに干していた白いTシャツが強風でぶわっとはためいた。タイピングを止めた手をキーボードの上に置いたまま、ちらりと窓に目をむける。
眩しい。
2022年7月に、これを書いている。空は晴天、湿気はむんむん、日差しはぎらぎら。猛暑がすぐそこまで迫ってきている。
干されているTシャツがレフ板のようで、白さがとても眩しい。それは詰まるところ、今年の夏の暑さも眩しいということだ。
ああ、夏だ。
圧倒的に夏だ。暴力的に夏だ。
痛々しいくらい、夏だ。
見るでもなく音だけを流しているテレビのニュースからは、「熱中症にお気をつけください」「危険な暑さです」と繰り返される。しかしそれだけ口酸っぱく言ったとしても、熱中症で運ばれる人は増加傾向にあるという。そうやってデータを示したあと、より強く「熱中症にお気をつけください」「危険な暑さです」と言う。
エアコンをつけた部屋でパソコンと向き合う。遠くで蝉が鳴いている。
数十年前までは、ここまで暑くなかったように思う。
もちろん気温的には暑いのだけれど、数十年前、小学生の私にとっては、夏休みに興奮していた自分自身の気持ちのほうがずっとずっと暑かった。
夏休み中の私はといえば、解放された小学校のプールへ毎日のように通っていた。水の中は気持ちがいいし、遊ぶように運動できるし、出席カードのスタンプも貯まるし、友達にも会える。
一石何鳥もできる場所だった。
時刻はお昼。プール終わりの私は、塩素の香水をつけて家までの道を駆けていた。家を出るとき、今日のお昼は冷やし中華だとお母さんが言っていた。身体がいっぱいいっぱい疲れている。
漂白剤に似た清潔な薬品の匂い。ペタっと張り付いた髪の毛。ワンピースを身に着けた腹ペコな私。アスファルトを蹴る足がもどかしい。
暑い。
こめかみを流れていくのは汗か、束になった髪から流れたプールか。
ああ、早く「あの部屋」に行きたい。「あの部屋」で涼みたい。家の中で唯一、ずっと冷たい部屋。
階段を上ってすぐにある「大きいおばあちゃん」の部屋。
地元の畳屋さんにもう何十年も前に作ってもらったという毛羽立ちが目立つ畳の和室。い草の匂いがすごくする。部屋の中央には「大きいおばあちゃん」が横たわる、病院から持ち出してきたような手すり付きのベッド。グレーの木材でできた大きな大きな7段タンス。あとから聞いたら、これは「大きいおばあちゃん」の嫁入り道具だったらしい。その他はテレビ台と、ブラウン管テレビ。
「大きいおばあちゃん」の部屋は夏でもひんやりしていて、家の中の避暑地だった。
家に着いた私は、はっはっと息を切らしたまま「ただいま~!」と叫んだ。猫のキャラクターのビニールバックは、洗面所へ放り投げる。「もうっ」と、後ろでお母さんが嘆いてるのは聞こえないふり。用意されていた冷やし中華をずるずると猛スピードで食べると、私は階段を駆け上り「大きいおばあちゃん」の部屋へ向かった。
「大きいおばあちゃん!」
ぴしゃーんとドアを開けると、ふう~と冷気が全身を包む。そうだ、ここだけが冷たい部屋だ。夏だから、いや、夏なのに、冷たい部屋だ。
「帰ってきたかえ」
ベットで上半身だけ起こしていた大きいおばあちゃんは、ゆっくりと全身で私のほうを向いた。
細い身体。どうしてこんなに痩せているのか小学生の私にはわからない。大きいおばあちゃんと呼び始めた頃から、大きいおばあちゃんは骨と皮でできていた。通気性の良さそうな薄いパジャマと身体の間は、余白だらけ。
「なあに、してきた」
「今日はねえ、ラジオ体操して、プール行って、でね、泳いでるときに○○ちゃんと競争みたいに潜って」それでそれで。
話止まない私を、垂れた頬を持ち上げながら見ている大きいおばあちゃん。私はベットに上半身を預け、ちょっと浮いた足をばたばたさせる。
「そのとき、びっしゃーってシャワーがすごい出て、先生がわーって怒ったんだけど」それでそれで。
すると、厚めの掛け布団の上に置かれていた手がぐぐっと動いて、私の頭にぽたんとのせられた。大きいおばあちゃんが、私の頭を撫でた。
「重いよ~」と言って、大きいおばあちゃんに目を向ける。窓から入る光が逆光になって、大きいおばあちゃんは暗かった。シルエットだった。
「いい夏にしいね」
それから数週間後、大きいおばあちゃんは亡くなった。
お葬式のあと家に戻った私は、2階の部屋に行った。ひんやりとしていたはずのその部屋に入ると、もわっとした熱気が私を襲う。強いい草の匂いが鼻についた。大きいおばあちゃんがいなくなった手すり付きの白いパイプベッド。
人が、いなくなった部屋。
そのき初めて、大きいおばあちゃんはずっとここにいるんだと思っていたことに気づかされた。この部屋はずっと冷たいままだと思っていた。
だってここは大きいおばあちゃんの部屋で、冷たい部屋だった。
細かった身体。大きいおばあちゃん。
部屋を冷たくしていたのはきっと、それなりの理由があったはずだ。でも私は、そのことを考えもしなかった。
この部屋は冷たい。ただそれだけだった。
「いい夏にしいね」と言った大きいおばあちゃん。いい夏、とはどんな夏なんだろうか。あれから何十回も夏を過ごした大人の私は、何をいい夏と呼べばいいのだろう。
あのとき、大きいおばあちゃんが私の頭を撫でた理由を考えてみる。暗く重い台風がやってくる前、一瞬の晴れ間のような行動だったのだろうか。
からだいっぱいに夏をまとっていた私と、ベットの上でしか夏を過ごせなくなってしまった大きいおばあちゃん。
「いい夏にしいね」
私は、何も気づけないまま「わかった!」と笑って答えたことを思い出す。