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【リレー短編】父がとったラムネのビー玉、私がとったラムネのガラス
「ラムネに入ってるビー玉ってどうやって取るか知ってる?」
金魚が泳いでいる紺色の浴衣を着た女の子の声とすれ違った。現実にはありえない大きさの金魚だ。
え、と思って思わず振り返ったのは、話の続きを聞きたかったから。だけど結局そんなことはできなくて、彼女のとろりと溶けそうなほど白いうなじがが最後に見えた。
今日は街で一番大きな夏祭りの日。
海まで続くという街で一番大きな川の川沿いが、明るさと喧騒と油っぽい匂いでいっぱいになる。
さっきの話、ラムネのビー玉の話、聞きたかったなあ、あのときに。
「ままぁ?」
ぐっと引かれた想像以上の力に、今自分が立っている現実に引き戻される。
「ん~、どうしたの?」
「わたあめたべたあい!」
お祭りに浮かれているからか、いつもより赤いほっぺたは見ているだけでその柔らかさに頬が緩む。
そして、アカネの振動に合わせてぴょこぴょこと揺れる2つの束になった髪の毛に、こどもの体重の軽やかさを感じて胸がきゅうっとした。愛らしい。
「じゃあ、お店探そっか! どこかな~」
歩幅を合わせているはずでも、私の倍の歩数で歩くアカネにあの日の自分を見た。
お父さんに、ラムネのビー玉をとってもらった日の私。
あの日の私も、今のアカネのように嬉しかったからぴょんぴょんと跳ねていた。
4歳の時、お父さんに手を引かれて、街で一番大きい夏祭りに行った。立ち並ぶ屋台の明るさに、何かが焼ける音に、すれ違う人の浴衣のカラフルな色に、何がなんだかわからなかったけど、とにかくワクワクした。
初めて浴衣を着た自分にもワクワクしていた。人混みの熱さがそのまま自分の熱さだった。
「おぉ! ラムネ! なっつかしいな~!」
手を引かれていたはずなのに、お父さんは不意に立ち止まった。
屋台の灯りの下には大きなタライがあって、その中に水色のびんがたくさん水に浮かんでいた。
夕暮れ、オレンジ色と黄色で溢れていた夏祭りの中で、ラムネの屋台だけが青かった。
ほってりと熱かった自分が、気持ちよく冷やされるような気がした。
「あたし、これ食べたい!」
「がははは! これは、食べるんじゃなくて、飲むんだよ!」
お父さんの笑った口はいつもより大きく開いていた。お父さんが笑ったから私も笑った。
「ほお~ら! しゅわしゅわだからな~」
お父さんがびんを一つ買って、屋台と屋台の間の茂みに一緒に座る。
隣のわたあめ屋の大きな機械のモーター音が鳴っていた。
がやがやと、たくさんの人の声もするし、たくさんの人が歩いているのに、私とお父さんだけが薄暗い茂みで止まっていた。
ぱしゅん、とお父さんがラムネの上を押す。じゅわわわ、と中から水が溢れてきた。
「あぁぁ! こぼれてる! こぼれてるよ! お父さん!」
「がはははは! 大丈夫、大丈夫!」
お父さんの手が濡れて、お父さんの手を触った私の手も濡れた。
ほら、とお父さんに言われ、溢れるのが止まったラムネに口をつける。
ぱちぱち、と口の中で今まで飲んだことのないすっぱいのが弾けた。
それから、舌の上を、とろけたような甘いのが流れていった。
「んん~! 美味しい! これすっごい美味しいね~!」
「だあろ! がはははは!」
初めて飲んだラムネは、私の忘れられない味になった。熱かった身体が涼しくなって、身体全部が甘くなったみたいにラムネは甘かった。
お父さんと交代しながら半分ぐらい飲んだところで、カラカラと音がした。
「……これなあに?」
「これはな~ラムネの肝だ! ビー玉だよ!」
真ん中の窪みの間で動くビー玉は今まで見た何よりも冷たい気がした。そして何よりもきらきらきらきら綺麗だった。
綺麗、なんてお母さんにしか使ったことがなかったけど、このビー玉は綺麗だと思った。
「ねえ、お父さん。サヨ、この丸いのほしいなあ」
「ええ!? これ取れないんだよなあ、ちょっと待ってろ」
お父さんは私の手からびんをとって、逆さまにしたり、飲み口の穴を大きくしようと指をいれたりした。
だけど、ビー玉は絶妙な大きさで、飲み口にも窪みにも引っ掛かったままだった。
「それな、瓶割らないと無理だよ」
試行錯誤する私とお父さんに、にゅっと上から言葉を落としたのは、わたあめ屋のおじさんだった。
たくさん並んでいたわたあめ屋の前は、お客さんをさばききったのか、人が通り過ぎていくだけになっていた。
「あ~やっぱりそうか~。よし、じゃあ、ちょっと離れてろよ。」
そう言うとお父さんはブンっと、瓶の飲み口を持って上に振り上げた。
時間にしてコンマ数秒、ガシャーン! と大きな音がして地面にきらきらが光った。
その音は、まるで爆発音のように聞こえた。
「おー! とれたぞー!」
お父さんは、割れたガラスの中から、まあるいビー玉を取り上げた。
私の手に置かれたビー玉はつるりとしていて水をそのまま固めたかのよう。
人差し指と親指で挟んでそおっと持ち上げる。見ると、その中には透明と虹色がたくさん入っていた。
「はぁぁぁあ……すごい……」
「なあ! 綺麗だろ!」
お父さんが私の頭に手を置いて、がしがしと手を動かす。くすぐったいはずなのに、ビー玉の中にお父さんの歯が反射して白が交じるのが綺麗だった。
夏祭りの日を堺に、お父さんはよくラムネを買ってくるようになった。
そして、毎回家の庭でガシャーン! と瓶を割って、ビー玉を取り出した。
お母さんには内緒な、と毎回お父さんに言われていた。ラムネを一緒に飲むことも、瓶を割ることも、ビー玉をとることも私とお父さんの秘密。内緒。
気づけば、ビー玉は10個になろうとしていた。
「ラムネ、買ってきたぞ~!」
学校から帰るとお父さんがにこにこしながら私に言った。
お母さんは仕事でまだ帰ってきていなかった。
「やった~! 早く飲もお!」
ランドルを下ろす、というよりは脱ぎ捨てて、私とお父さんは庭に出る。
ぱしゅん、じゅわわわ。
「ほら、開いたぞ! お母さんには内緒な!」
渡されたラムネを口に近づける。
ぱちぱち、とろり。
身体がびりりと痺れて、軽くなる。
「おいし~!」
私はすっかりラムネの虜になっていた。お母さんに内緒で、お父さんと一緒に悪いことをしているという気持ちも相まって、この時間が大好きだった。
交代で飲んで、ラムネが空っぽになる。
瓶に残されているのはいつものビー玉。
「よし! 割るぞ!」
これもいつものように、お父さんがブンっと瓶を振り上げる。
ガシャーン!
今日はよく晴れていた。夕方だけど空はまだ青くて、太陽はまだ空にいるはずなのに、暑くはなくて涼しい風が吹いた。
地面に散らばったラムネの瓶だったガラスが、きらきらと綺麗だった。
空の青を吸い込んで、不揃いな欠片が光を反射していた。
無意識だった。
そっとカケラの一つに手を伸ばした。
ちくり、とした。
気づけば、手のひらが切れていた。
ガラスの欠片を手のひらでぎゅっと取ったからだった。
透き通る青の欠片に、ぽたり、と赤黒い滴が落ちた。
「っおい! 何してるんだ!」
お父さんが私の手首をぐいっと引っ張るから、びっくりして手のひらがぱっと開いた。
「血ぃ、でてるじゃねえか!」
そう言われてだんだんと手のひらが痛くなってきた。じわじわと赤黒いのが手のひらに溜まっていって、流れた。
「……ふぇ…う、え、えぇぇん…!」
お父さんが怒っている。私の血を見て怒っている。呆れられている。困らせている。手が痛くなってきた。
全部がいっぱいいっぱいになって、私は泣き出した。
その日、「だから言ったのに~」と言いながら、お母さんは私の手を消毒して、包帯を巻いてくれた。
お父さんとの秘密がばれちゃった。
そう思うとまた泣きたい気持ちになった。
私がガラスで手を切ったのを最後に、お父さんはラムネを買ってくるのを辞めた。
二人だけの秘密も、大好きだった時間も終わってしまった。
私がガラスを掴んだから。
綺麗だと思ってしまったから。
それから、高校生になって、初めてできた彼氏と街で一番大きい夏祭りに行った。
「あ、ラムネ」
大輪の朝顔が咲いている水色の浴衣を着ていった。彼は可愛い、と褒めてくれた。
「一緒に飲もっか」
彼が買ってきてくれて、屋台と屋台の間の茂みでラムネを開けた。
ブーーーンとわたあめ屋の機械音がすぐとなりで大音量で鳴っていた。
ぱしゅん、しゅわわわ。
懐かしい音にふふ、と笑ってしまった。
二人で交代しながら飲み終えると、
「ラムネに入ってるビー玉ってどうやって取るか知ってる?」
と彼が私に聞いた。
「瓶割らないと取れないよね」
私が言うと、彼は「実はね」と言いながら飲み口の青いプラスチックにぐっと手をかけた。
すると、するするとプラスチックが回って、外れた。
瓶を軽く傾けると、ころん、と彼の手のひらにビー玉が現れた。
「ほら、こうすると取れるんだよ」
え、え〜……、と声にならない衝撃と、あの日できた手のひらの傷がじんと痛んだような気がした。
そんなに簡単だったのか。
呆気ないほど簡単じゃない。
「はい、あげる」
そう言って渡されたビー玉はあの日よりも綺麗で、顔を上げるとラムネよりも甘い顔で笑う彼がいた。
あ、私この人のこと好き。
とろり、とラムネの甘味のように思った。
彼に早く出会っていたかった。
父との大好きな時間を終わらせてしまったと思っていた。
だけど、またあの時間がやってくる。
きらきらきらきら眩しくて、胸がいっぱになるようなあの時間。
「ふふ、ありがとう」
どういたしまして、彼がまたとろりと笑ってくれた。
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