”かもしれない”という妄想が光に変わる
例えば、私のnoteを読んで、「ああ、読んでよかった」と思う人がいてくれるかもしれない。私が書いた記事を読んで、「明日からちょっとだけ頑張ってみようかな」と元気になる人がいるかもしれない。私の文章を読んで、「私だけじゃなかったんだ」と孤独から抜け出せる人がいるかもしれない。
夢に向かうたった一つの正義は、”かもしれない”という妄想だ。
新しいサービスを生み出したり、何か挑戦するとき。「もしかしたら、○○かもしれない」を、たった一つの正義として、たった一つの懐中電灯にして進んでいくのだと思う。
もしかしたら、このサービスは世界で初めてかもしれない。これがあることで、もっと便利になるかもしれない。不便に思っている人がいるかもしれない。喜んでくれる人がいるかもしれない。繋がっていけるかもしれない。
そんなふうに、根拠のない”かもしれない”が原動力になる。
私でいえば、ライターを目指すのは、盲目的に上のことを思っているからだと思う。私のnoteを、私が書いた記事を、私の文章を読んで、読者が何かを受け取ってくれるかもしれない。きっと、受け取ってくれるかもしれない。
めちゃくちゃ盲目的だ。
目隠しをしながら進んでるのと多分似ている。根拠なんてどこにもない。どこにもないけど、目がつかえない真っ暗な道のりでそのことだけを心の中で信じて書き続ける。
もしかしたら、誰かが明日元気になるかもしれない。きっと、孤独から救われるかもしれない。たぶん、「読んでよかった」と思ってくれるかもしれない。
もちろん、まったく逆のことも起こるかもしれない。でも一旦は、その可能性たちを見て見ぬふりをして、明るい妄想だけを描き続ける。そんなふうに思われないように怯えながら、明るい”かもしれない”を信じて書き続ける。
でも、そう思い続けることだけが、何かを目指すもの、生み出すものに与えられた正義なのだと思う。自分を奮い立たせる支えでもあり、道に迷わないための地図であり、たった一つの盲目的な光だ。
そういうふうに思いながら道を進んでいると、ときどきハラリと目隠しが外れて、リアルな光が見えるときがある。
「実は、いつも元気もらってるんだ」「あのエッセイよかったよ」「面白かった」「また読みたくなる」
ぱちぱちと目の前で弾ける光が眩しくて、泣けてしまう。ああ、盲目的に信じてきてよかった。ふわふわと、心の中にだけあって実体を伴わなかった”かもしれない”が、ここにある。
”かもしれない”正義の話。
”終わりよければすべてよし” になれましたか?もし、そうだったら嬉しいなあ。あなたの1日を彩れたサポートは、私の1日を鮮やかにできるよう、大好きな本に使わせていただければと思います。