自己紹介|はじめてのnote
はじめまして。ハヤマカズノリと申します。
京都市役所で働く40代です。
今回、noteでの初投稿ということで、自己紹介とこれから記事にしたいことについてお話ししたいと思います。
挫折のゲーム会社時代
ファミコンに出会ってからは、漠然と、「ゲームをつくってみたい」という思いをずっと持ち続けました。
就職活動は迷わずゲーム業界を第一志望に選び、「開発職」と「営業職」の2社に内定をいただきました。
ここで何を思ったか、営業職を選び、自ら夢のゲームクリエイターの道を閉ざし、そのまま鳴かず飛ばずで3年後には退職。
規模や安定を重視して仕事を選んだことを激しく後悔するも、あの頃の自分では、いずれにせよ通用しなかったと思います。
京都市役所時代「攻める広報の栄光と影編」
京都市役所に入ってからは、二度にわたり、合計8年間広報課に所属していました。
主に「きょうと市民しんぶん」や広報動画を担当。
最初の5年間は、「分かりやすく、正確に」広報することに注力しました。それが伝統でしたし、注意力散漫な自分としては、良いトレーニングにはなったと思います。
別の部署を挟んで、もう一度広報課に戻ってきました。
異動が決まった時から、「分かりやすいの向こう側」を目指すことを決意。
「誰も読んでいない」と笑われ、専門家からは「情報を羅列しているだけ。読ませる工夫が足りない」と酷評された、市民しんぶんの改革に取り組みました。
コンセプトは、「思わず、読みたくなる市民しんぶん」
批判を恐れずに漫画やゲームのパロディ等を積極的に取り入れ、ストーリー性を重視した「攻める」紙面づくりに努めました。
また、熊本地震の際は迷わず被災地支援に向かい、現地の状況をレポートするなど取材にも力を入れました。
結果、SNSでバズるようになり、テレビや新聞でも取り上げられるように。
ご厚意で動画にまとめてくださった方も(笑)
メンバーは全員、編集やライターの経験のない「普通の公務員」でしたが、手探りで他都市や民間の広報の研究を続け、新たに「編集企画会議」を導入し、全員が企画を持ち寄る形を続けました。
当初は全員が戸惑っていましたが、とにかく出てきたアイデアをみんなで褒め合い、笑い合い、とにかく前向きに紙面づくりを続けました。
そうするうちに、真面目な職員がシュールなアイデアを出すようになったり、入庁して間もない職員や、最古参で悩み続けた職員も、次々と斬新なアイデアを出すようになりました。
平成29年には、(一社)日本広報協会が実施する「全国広報コンクール」において、最高賞となる内閣総理大臣賞を受賞!
「日本一の広報紙をつくりたい」と本気で思っていたので、とても達成感がありました。
その他、広報動画でも、白塗りの貴族がキレキレのダンスを踊る「平成KIZOKU」シリーズに携わりました。
こちらも、関西で最も権威あるCM賞「2017 MADE IN OSAKA CM AWARD」で最優秀賞を受賞。
ところが、日本一の評価を得ながらも、その後は行政マンとして、どこかで満たされない思いが燻り続けました。
評価されている小さな自治体の広報紙では、シビックプライドがとても感じられる内容が多かったからです。
市民と同じ目線で、小さなまちづくりの出来事を
自分のことのように嬉しそうに、記事で、写真で表現する広報。
自分は、表面的にしかまちのことを伝えられていなかったのでは。
広報課の後に携わった京都市美術館のリニューアルの仕事を通じて京都の文化芸術に心血を注ぐ人々を目の当たりにすることで、
「自分は京都のことを全然知らない。」
ということを思い知らされました。
また、広報時代には朝から晩まで苦情の電話を受け、
他にも美術館時代をはじめ、あらゆる職場で、
市民と行政の分断を目の当たりにしてきました。
「どうして分かり合えることができないんだろう」
いつしか、京都市職員として、
前向きにまちと向き合うことができなくなっていました。
京都市役所時代「生き方が変わった公園利活用編」
その後、公園利活用の担当に異動。
当時は、公園にカフェなどを整備することが全国的に流行しており、京都市でも、「公園でいかに稼ぐか」といった視点で、
○賑わいの創出
○地域の活性化
○民間活力の導入
こういった言葉で公園利活用の可能性を探っていました。
(今では、この3つのフレーズが大嫌いです(笑))
ですが、地域の方が公園を維持管理する
「公園愛護協力会」の高齢化が著しいことや
ボール遊びなど禁止だらけのルールが公園を閉じた空間にしており、
「草ボーボーの死にかかった公園」
があちこちに見られることに課題を感じ、
ハード面でなく、ソフト面での公園の在り方を変えることに関心が向いていきました。
手法として、「社会実験」という形で、
禁止だらけのルールを緩和することを試していきました。
社会実験を実施するに当たり、
地元地域に説明に行って数時間説教されるなど、
当初は理解を得るのが難しい時期もありました。
ですが、「公園を開かれた場所にする」という理念に賛同してくださった
民間企業や市民活動団体が少しずつ仲間になり、
また幾つかの地域も、公園から地域の絆を取り戻すことに可能性を感じていただき、多様な主体が連携して公園から様々な価値を生む動きが生まれました。
こんな感じで、それぞれの地域課題、公園のポテンシャルに合わせて多彩な取り組みを行いました。
この社会実験も、批判を覚悟の上の取り組みでしたが、批判以上に多くの方が面白がって関わってくれたと実感しています。
そして、社会実験ではなく、地域が望めば独自にルールをカスタマイズしながら公園を柔軟に運営できる制度「Park-UP事業」を構想。
地域だけでは負担が大きい点を考慮して、民間企業やまちづくり団体が「サポート団体」として、公園運営に参画できるように設計。
また、京都市はコーディネーターを派遣し、サポートできるようにもしました。
この制度を活用して、伏見区の北鍵屋公園では、藤森学区の地域の皆さんと株式会社セブン‐イレブン・ジャパンさんとで連携し、公園内にコミュニティスペース併設のコンビニエンスストアを整備することになりました。
このコミュニティスペースは、藤森学区の皆さんが設立した公園運営組織が管理し、その運営資金をコンビニエンスストアの売り上げの一部で賄う、という、全国初のシステムです。
このプロジェクトには、「分断を生まないまちづくり」という個人的な思いが詰まっていますが、書き出すと長くなるので、ここでは割愛します…汗
公園利活用を通じて、地域の方、企業、大学生、クリエイター等様々な方と出会い、互いの思いを共有。
その過程で、京都のまちには、こんなにも素晴らしい人がいて、思いをもって活動しているんだ!ということを実感することができました。
以来、毎週のように公園に出かけては、様々な人と一緒に、公園を立ち止まり、出会い、交わる場に変えていく日々。
実は結構人見知りをするので、知らない人の輪に飛び込んでいくとか、完全に生き方が変わっていきました。
原動力は、
「分断のない、やさしい京都のまちは、公共空間からつくることができる」
という思い。
気が付けば、京都のまちが好きでたまらなくなり、公園だけでなく、様々なコミュニティに顔を出すようになりました。
これからの活動 京都をやさしいまちにしたい。
現在は公園の担当から外れ、民間企業でいうところの「経営企画」的なセクションで働いています。
ビジネスや文化、環境、人口減少対策まで、幅広い分野が守備範囲となりました。
どんな分野であっても、公園で学んだこと、
つまり、市内外を問わず、様々な方と出会い、交わり、一緒にできることを模索し、小さく形にすることから、課題を価値に変える取り組みを様々な場所で試しています。
それらは、分断を生まない「やさしいまちづくり」につながると信じています。
これまで、Facebookで一部を紹介してきましたが、それでは足りない位、京都のまちには素晴らしい方々が思いをもって活動されています。
どれほど時間をさけるかは分かりませんが、
noteでも、そういった方々のことを紹介していければと思います。
そして、自分自身も、これまでインプットしたことを少しでも言語化して、これから未来に向けて
京都をどのようなまちにしたいか、書き記していきたいと思います。
終わりに
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
これまでのキャリアなどで得られた成果は、
言うまでもなく自分一人の力ではなく、
一緒に取り組んでくださった民間の方々に加え、
庁内においては、上司の温かい応援、
難しいミッションに向き合ってくれたチームメンバー、思いを引き継いでくれた後任の努力があってのことです。
感謝しかありません。
これからも、
分断のない、やさしい京都のまちを。
次の世代が希望の持てる社会を。
多様な方と共に、京都のまちから切り開いていきたいと思います。