ペリーの黒船来航で幕府が開国したわけではない「知られざる物語」
学校で学ぶ歴史って本当の話じゃなかったり、はしょられているから事実関係が曖昧になったりしますね。
「幕末、黒船がやってきて日本が大騒ぎになる」というシーンは、僕たちは今までテレビや映画などで何回も見たからそれが事実だと勘違いしてしまう。案外、中学くらいまでの社会科の先生でさえそれが真実だと信じている人多いかもしれませんね。
朝日新聞デジタルに以下のような記事があがって、ちょっと話題になりました。
「黒船」という言葉には、日本人が初めて見た蒸気軍艦への恐れと強い関心が伝わってくる。日本を開国させた歴史的事件として 語られる米国ペリー艦隊の来航。だが、知られていない事実も数ある。1853年7月、ペリー艦隊が姿を現した江戸湾では、 黒煙を吐いて走る異国船をひと目みようと、「黒船」見物ブームが起きたという。艦隊は突然やってきたと多くの人が受け取ったが、実は幕府は1年前に来航を予告されていた。 (2016/11/6 朝日新聞デジタル)
そうです。これは事実。幕府は黒船が来ることを前もって知っていました。
チクったのはこいつ。長崎出島のオランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウス。
アメリカが来る、しかも砲艦外交(軍事力の威嚇的な行使を背景として圧力をかけながらも外交交渉で合法的に政治的目的を達成しようとするという強制外交)で来るってんで、ヤンさん焦った。先に日本とオランダとで通商条約を締結して自国の権益を守ろうと提案したんですけど、それは拒否されるんですね。結局、ペリーが来て日米和親条約を結んだあとに「おれも、おれも」と言って条約を締結するわけです。
だとしても、ペリーが来たことで、鎖国を辞めて開国したのは間違いないんだから、「来ることを知っていた」くらい些細なことじゃない?そう思いますか?
いやいや、そもそも、日本は鎖国なんてしてなくて、厳密にはペリーのせいで開国したわけではありません。開国というより、開港による保護貿易解禁して自由通商の開始というべきでしょう(通商自体はオランダとも中国ともしていたし、藩は藩独自で他国とも非公式な闇貿易もしていた)。
では、なぜペリーが来た時にアメリカとの通商を承諾してしまったのか?
そのためには、それまでに至る経緯を知らないといけないんですよ。黒船に腰を抜かして条約締結するほど幕府の人たちはアホじゃありません。
そもそも、ペリーが日本に来た最初のアメリカ人ではないんですよ。
その前にアメリカ人は何人も何回も日本を訪れています。ペリーが浦賀に来たのは1853年ですが、1797年にアメリカ船がオランダ国旗を掲げて(アメリカだと入れないから)出島に来航、そこで貿易を開始しています。しかも、1809年(文化6年)までに13回も。
そして、一番重要なのは、ペリーが来航以前にロシアがやってきて、ペリーと同じような要求をし、そして戦争になりかけた事実があることはあまり知られていません。
鎌倉時代にモンゴルが攻めてきたことを「元寇」といいますね?この時期ロシアによって日本も襲撃されていて、それを「露寇事件」といいます。
1792年(ペリー来航の60年以上も前!) ロシアのラクスマン、根室に来航。通商を求める。
ラクスマン「ねえねえ、僕、江戸に行きたいんだけど」
当時の幕府の老中は松平定信。寛政の改革真っ最中。そして当然困惑します。「やべーどうするよ」
結局、定信はラクスマンの通商要求を拒絶するんですね。その代わりに、長崎への入港許可証付与します。要は、時間稼ぎみたいなもんです。当然、ラクスマンは怒るかと思いきや、満足して帰国しちゃいます。
これには定信も逆にびっくり。
定信「え?マジ?帰ったの?ラッキー!改革続けようっと!」。
しかし、そんな喜びもつかの間、翌年1793年 松平定信は失脚してしまいます。
そして1804年 その入港許可証持って、ロシアのレザノフというやつが長崎へ来航します。
レザノフ「約束通り、通商しに来たよ(わくわく)」
しかし、幕府はここでも半年もぐじぐじと返事しません。レザノフはほぼ拘束状態です。最終的に、通商拒絶とレザノフたちに国外退去を命じるんです。強気です。
説によれば、この時はじめて「鎖国」という単語が使われたともいわれます。言い訳として「日本は鎖国しているからごめんね。通商できないんでよ」的な言い方の為に。
しかし、レザノフはラクスマンとは違います。「はい、そうですか」と引き下がらず、激怒します。
レザノフ「話が違うじゃん!お仕置きだ!」
報復を決意したレザノフは、1806年 ロシア軍艦に指示を出し、樺太を襲撃します。これが、文化露寇事件というやつです。
続いて翌1807年 ロシア軍艦、択捉島も襲撃します。200-300人足らずの日本の守備隊はただ敗走するのみ。
その報せは江戸にも届きます。幕府は当然うろたえます。当時読まれた歌があります。
「蝦夷の浦に 打出でてみれば うろたへの 武士のたわけの わけもしれつつ」
有名な「田子の浦に」の歌のパロディですね。
しかし、当時の幕府はまだまだ力も意地もありました。即効でロシア船打払令を出すんですね。次、ロシア船が来たらやってしまいなさいという命令です。
「マジ、戦争だ!」
幕府は本気でした。幕府の命令で、津軽、南部、秋田、庄内藩の兵3000名が蝦夷地に派遣されます。次、ロシア軍艦が襲撃してきたら、本当に日露戦争が起きていたはずです。
しかし、その頃、幕府の知らないところで、レザノフ、勝手に病死してた。同時に、襲撃したロシア兵は、ロシア皇帝によって投獄されてた。
「お前ら勝手なことすんな」と。ロシアもただの無法者ではなかった。
そんなことで、もう、いくら待ってもロシア軍艦は来ないんです。でも、そんなこと知らない幕府は来ない敵をずっと待ってた。
そうこうするうちに、悲劇が起きます。津軽藩士殉難事件といわれます。警備の津軽藩の兵たちが厳しい寒さの冬を越えせず死亡してしまうんですね。可哀想に。
明治の日露戦争前にも八甲田山で対ロシア戦に備えた雪中行軍をやって多くの兵隊が死にましたが、あれと同じようなことがすでに起きていたんです。高倉健主演で「八甲田山」という映画にもなっています。
この映画は名作なのでぜひご覧になってください。
江戸時代に戻ります。
そんな事件があっても警備は解除されません。津軽藩だけじやありません。他藩も疲弊します。そりゃあ辛いです。いくら待ったって敵なんか来ないのに、寒いところで耐え忍ぶんですから。
1808年 たまりかねた松前奉行が幕府に上申します。
「もう、つらいっす。やめていいすか?」
これ普通に書いてますけど、今でいえば、青森の市役所の課長さんが直接総理大臣に直訴するようなもので、当時の幕藩体制からいったらあり得ないことなんです。
幕府も簡単に許します。「好きにしてよし」
まあその後1811年にロシア人ゴローニン捕縛事件があったりもしたので、警備自体は続いていたようですが…。
その後ペリーが1853年に浦賀に来るまでに、1808年にはフェートン号事件、1824年の大津浜事件と宝島事件が起きイギリスと揉めます。遂には、1825年には異国船打払令が出されるんですが、1837年に起きたアメリカ船を砲撃してしまったモリソン号事件をきっかけに異国船打払令は廃止されることになります。なぜなら、モリソン号は日本人の遭難者を日本に送り届けるために来た船だとわかったから。人道的に「異国船打払令ってどうなの?」と思ったわけでしょう。かわりに遭難した船に限り補給を認めるという薪水給与令を出してます。
打払ったり、助けたり、もう混乱しまくり。
当時の幕府は老中阿部正弘政権でしたが、それでも外国船の出没が頻繁になったために、打払令の復活の可否も議論されていました。結局、沿岸警備の不十分さを理由に、打払令の復活はなしと決めます。あきらめちゃったわけです。
そんなときにオランダから「来年アメリカが脅しにくるよ」と伝えられてのペリー来航なんです。
いきなりじゃなくて、こういうたくさんの経路を踏んだうえでのペリー来航なので、幕府の本音としては「もうなんか面倒くさいよ。もういいんじゃね。アメリカと条約結んで終わらせようよ、このゴタゴタ」と思っていたと思うんですよ。
そんな事実を知った上で、改めて「黒船来航」という事実を見ると違った歴史の一面が見えてきたりしませんか?
ちなみに、大坂夏の陣では真田幸村が無双といわれていますが、そうじゃないよ、という記事はこちらです。↓