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孤立と孤独、日本人と西洋人の感じ方の違いについて

昨日8月27日発売の「AERA 2018年9月3日号」に僕のインタビューが掲載されました。

巻頭特集「孤独の処方箋」のトリを務めています。

内容は、「既婚者の方こそソロで生きる力が足りない」というお話です。ぜひご覧ください。

いつも言っていることですが、本来、孤独と孤立とは別だし、孤独は主体的であるのに対して、孤立は受動的なもの。孤独は物理的なものだし、孤立は心理的なもの。孤独と孤立という言葉を混同してしまうのはよくないわけです。

にも関わらず、どうしても孤独=悪という概念が強すぎて、ともすれば「ひとりで快適に過ごす」人たち自体を悪者扱いにもしがちです。今回の特集も「孤独の処方箋」って…。まるで、孤独を病気扱いにしていますしねえ。

死後何日かたった後で発見された孤独死・孤立死の人たちを「可哀そう」と言いますが、その人が一人で死んだからといって果たして不幸だったと決めつけられるものでしょうか?所詮、人間なんて死ぬ時は一人です。誰かを道連れにすることはできないし、皆に看取られて死に行くことが幸せだという決めつけは、残された者の願望でしかないと僕は思います。

イギリスで孤独担当大臣ができた時も、日本国内で話題になりましたが、ホントあんなもん、必要ありませんって話です。

今回のAERAの特集でも、案の定イギリスやフランスでの孤独対策について触れられていました。

よくいわれるのが日本の高齢者は西洋人と比較して、家族以外のつながりが少なく、友達との付き合いがないから孤立感を感じやすいのだという言説があります。

確かにそういう面は否定できないかもしれません。今回の記事でも、職場に唯一依存してきた高齢者は、退職後孤立感に苛まれるという話をしています。

ただ、これを逆の見方にすると、頼りになる友達が50%近くもいるのに孤立感を感じる西洋人ってどうなの?とも思うわけです。どんだけ人に囲まれていないと不安なんだよ、という反面、人に囲まれすぎているからこその心理的孤立感を自分自身でつくってないか?ということ。

ここで、ちょっと考えてほしいのは、日本人と西洋人との孤独というものの捉え方そのものが違うという点です。


有名な松尾芭蕉の句に以下のようなものがあります。

「古池や蛙飛び込む水の音」

日本人であれば、この句を聞いて沸き起こる感情は、割と共通しているでしょう。特に、俳句というものを学ばなくても、この句から得られる「わび」「さび」の感情を想起できるというのが日本人なんだと思います。これこそエモいという感情に通じるものです。

しかし、西洋人はこの句を聞くとほぼ「で、どうしたの?」と聞くそうです。これだけだ、というと「だからなんなの?」と思ってしまう。

この句は別に孤独について歌ったものとは言えませんが、一人でいるからこそ、自然と一人で対峙している瞬間だからこそ、得られる心の豊かさについて詠まれたものであることは確かです。

要するに、日本人は人とだけではなく、自然ともつながりを持てる。一方で、西洋人は自然とは人間が征服すべき対象でしかない。そこは大きな違いです。

さらに、西洋人は、有意識としての自我の確立を最優先します。確固たる自分自身のアイデンティティを形作ることこそが自立であると考えます。日本も明治以降、そういった西洋かぶれの影響を受けたことは間違いないですが、もともとの日本人とは、有意識としての自我というより「無意識の無我」を大事にしていたんだと思うんですよ。

子どもの頃、一人遊びに夢中になって、周りにいるお母さんや友達なんか意識しなくなったことは誰しもあるでしょう。夢中になって虫を追いかけて、気が付いたら迷子になったということもあるでしょう。

あの夢中とは、ある意味「没頭体験」であり、長じて勉強や仕事でそれを体験したり、その力を発揮することは、大きな精神的充足にもつながるものです。この「無我」の境地こそが、ひとつソロで生きる力の源でもあると思うんです。

物理的に一人であるとか、周りに人がいるとか、というものは孤立とはあまり関係なくて、人が心理的に孤立を感じてしまうのは、心の中の空白部分の面積なんじゃないか、と。

つまり、心の中に有意識としての自我を満たしていないと不安になってしまう西洋人気質というのは、常にその心の隙間を誰かで埋めようとする。しかし、それは結局代用でしかない。隙間をどれだけ人で埋めても、自我の大きさが変わることはないので孤立感がどんどん大きくなってしまう。有限の大きさを持つからこそ、隙間が発生するからです。

一方、心の中は無であるという考えであれば、有限ではないのだから、そもそも隙間なんていうもの自体発生しないし、無我の境地において、それ以外の余計な空白なんてものも存在しない。

器があるから空っぽという概念が発生するのであり、器そのものがなければ、空っぽなんてないし、すべてが満たされているとも言える。むしろ、満たされるという概念そのものもない。無だから。

そう考えれば、一人であるという状態なんてどうでもいいことなんです。心を満たすのではなく、そのままの無であると知ること。そうすれば、心理的な孤立を感じることはないのではないかと僕は思うんです。

心の隙間を誰かというもので埋めようとするからそこに過度な依存が生まれる。埋めるべき誰かがいないと言いようのない欠落感を感じてしまう。それが孤立です。

大事なのは、何もないという無の状態と有意識の中で人と物理的につながって過ごすこととのバランスの問題であって、いつも多くの人に囲まれているかどうかは問題ではないのです。


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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。