【曇天をゆく3】中流階級の理想郷を目指したBarbican Estate ~ロンドンまちあるき~
こんにちは。ロンドンは少しずつ寒気が増し、霧が出るようになってきました。さて、「曇天をゆく」第3弾は、ロンドン中心部のシティに位置する大規模団地、Barbican Estateを紹介します。世界中で急速に郊外化が進んだ第二次世界大戦後の時代、都心に中流階級の理想郷を作るという信念をもって建てられたこの団地は、そのモダニズムすぎる建築と優れたコミュニティづくりで人々を惹きつけ続け、今やその平均価格は£1 million(約1億6500万円)とも言われています。
一方で、Barbican Estateの特徴であるBrutalism(モダニズム建築の思想の1つ)は、犯罪が多発する荒廃したSocial Housing(公営団地)を想起させるものでもあります。ではなぜBarbican Estateは今でもなお人気の住宅団地であり続けているのでしょうか。そこには、理想のライフスタイルを追い求める建築家と住民達の絶え間ない努力がありました。金融街シティの喧騒にひっそりとたたずむミステリアスな団地の旅をお楽しみください。
1. Barbican Estateの場所と歴史
Barbican Estateはロンドン中心部のThe City of London(シティ)に位置します。シティと言えば世界を代表する金融街ですが、ロンドンの中でもとりわけ異色の存在です。広域自治体としてのロンドン市は32の特別区で構成されているのですが、このシティだけは独自の市長を置いたり警察機構を持ったりと、特別区とは異なる例外的な地位を与えられています。また32のロンドン特別区は基本的に東京23区と同程度の人口・面積を持ちますが、シティは人口が1万人に満たず(昼間人口はもっと多い)、面積は約1平方マイルと皇居より少し大きいくらいです。ニュースや記事で"the square mile"と言っていれば、それはこのシティのことを指します。
そんな金融街シティにBarbican Estateのような大規模団地が建設されたのは特別な事情によります。第二次世界大戦中、Barbican Estateが位置する土地はナチスドイツの空爆によって完全に破壊されました。戦後この土地を開発するにあたり、当初は商業地域を建設する予定でしたが、1953年にLondon County Council Act(現在のロンドン市やロンドン特別区ができる前の行政区分や行政機構を定めた法律)が改正され、各区に住む有権者数に基づいて議会の議席を割り当てるとされたことが大きな契機となります。シティは19世紀以降、金融街としての地位を確立するにつれ人口が減少しており、ナチスドイツの空襲はそれに追い打ちをかけていました。また通勤時の混雑が悪化していたこともあり、シティ政府※は域内に住む人口の増加を狙ってこの土地を住宅地として開発することを決定したのでした。
※シティ市だと違和感が出るので、これ以降行政機構としてのシティを便宜上シティ政府と呼びます。
2. 若き建築家達の理想
戦後すぐ、1950-60年代初頭のイギリスでは各地で復興事業が行われていました。戦争で荒廃した都市の復興を目指し、安価なSocial Housing(公営住宅)が大量に建設されたのです。この復興事業で花開いた建築思想が、Barbican Estateの最大の特徴であるBrutalismです。モダニズム建築の思想であるBrutalismはミニマリズム的で、機能主義的で、躯体や建築素材を露出させ、基本的に単色で、直線的・直角的な形を多用します。政府庁舎や大学の建物で多く用いられるとともに、安価な公営住宅を大量に供給するという要請にマッチした建築思想でもありました。
一方、この頃欧米大都市で急速に進行していたのが郊外化です。モータリゼーションの進行や鉄道網の発展と共に、裕福な人々は過密した都市を出て郊外に移り住み、静かでゆとりのある生活を送るようになりました。ロンドンも例外ではなく、20世紀初頭に提案されたあのGarden Cityに触発されて郊外住宅地が生まれ、また必ずしも高所得者層向けではないものの、ル・コルビュジェの「輝く都市」の影響を受けたニュータウンも郊外に建設されました。(建築や都市になじみのない人にとっては省略しすぎましたが、ここをちゃんと説明するには時間が必要なので今回はお許しください。Garden Cityやニュータウンはいずれ取り上げるつもりです。)
しかし、このような時代背景の中で、反対に都市の中にゆとりある理想的な生活を実現することを目指すグループが現れます。そこには都市計画家や建築家のみならず、ジェントリフィケーションという概念を生んだRuth Glassのような社会学者や政治家も含まれていました。そして、Barbican Estateの設計を担うことになる若き3人の建築家、Peter Chamberlin, Geoffy Powell, Christof Bonが立ち上げたCPB(事務所名、名前の頭文字を取った)もこのようなグループの一員だったのです。
Barbican Estateは、金融街で働く人の住宅にしたいというシティ政府の思惑もあり、中流階級のための住宅として開発されることが決定されていました。つまり、都市には低所得者が住み、裕福な人は郊外に住むことが当たり前の時代において、Barbican EstateはCPBの理想、つまり都心にありながらゆとりある生活ができる中流階級の住宅を作るのにうってつけの場所だったのです。彼らのビジョンは以下の言葉で表現されています。
こうしてBarbican Estateでは、シティ政府の政治的決定と若き建築家3人の理想の追求の結節点として、喧騒から隔絶され、整然とした質の高い住環境を享受しながら、職場や娯楽にすぐアクセスできるという、中流階級の理想的なライフスタイルを実現させることが目指されたのでした。
3. Barbican Estateの全体像と4つの特徴
全体像
1965年から76年にかけて建設されたBarbican Estateは、16haの土地(400m×400mくらい)に2000戸の住宅があり、シティの人口の4割に当たる約4000人の人が住んでいます。下の地図の灰色の部分が住棟です。住棟にはTower Block(高層)とTerrace Block(中層)の2種類があり、Tower Blockが3棟、Terrace Blockが14棟建っています。緑の部分が緑地、水色の部分が人口の池や水路、オレンジの部分が公共施設であり、公共施設には図書館・美術館・大ホール等があるBarbican Centre、2つの学校(The City of London School for Girls, The Guildhall School of Music and Drama)、ロンドン博物館などが含まれます。
特徴1 Brutalism建築と自然の融合
地図にあるように、住棟はどれも直線的で長さが100mを超えるものもあります。後程様々な写真を見るとよくわかりますが、Brutalism建築は非常に硬く、厳しく、荒々しい印象を受けます。その一方でエリア内には多くの緑があり、また人口の池や水路もあります。荒々しい建築と優しい自然は何とも対照的で、不思議な雰囲気を醸し出しています。
特徴2 歩車分離
地区全体が周囲より5-10mほどかさ上げされたコンクリート土台の上にあり、車の動線はすべて地上レベル、歩行者の動線はかさ上げされた土台の上と、歩車が完全に分離されています。上の地図でBarbican Station付近から東側に延びる細長いオープンスペースがありますが、その下の地上レベルには北西側の車道があり、通過交通はここを通ります。また駐車場や駐輪場もこの道に面して地上レベルにあります。歩行者動線はオープンスペースとTerrace Blockの1階部にあるデッキで構成されます。
特徴3 豊富な文化施設
都会的で豊かなライフスタイルの実現を目指したBarbican Estateでは、音楽、アート、演劇といった文化活動が生活の中心に位置づけられました。コミュニティの中心にあるBarbican Centreには近代アートのギャラリーや演奏会が開かれる音楽ホール、劇場、映画館があり、ロンドン中から人々が足を運びます。またその他にも、ロンドン博物館、公共図書館、大小のホール、芸術学校(Guildhall School of Music and Drama)があります。
特徴4 こだわりのアメニティ
不動産屋さんの宣伝文句みたいですが笑。戦後日本の団地が食寝分離、ダイニングテーブル、水洗トイレといった近代的なアメニティを導入して新しいライフスタイルの象徴となったように、Barbican Estateも当時最先端の洗練されたアメニティを取り入れました。電力による床暖房やステンレス製キッチンを完備し、Garchey waste-disposal systemと呼ばれる当時の新しいごみ処理システム(現在はあまり使われなくなった)も採用されました。
4. 住民達による理想の追求 ~Barbicanまちあるき~
Brutalism建築
それではBarbican Estateのまちあるきを始めましょう!降り立ったのはFarringdon駅。世界で初めて地下鉄が開業した時の終着駅でもあります。1階部のおしゃれなお店と18世紀のGeorgian Architectureが調和した街並みを抜けると、Barbican EstateのTower Blockの1つが見えてきます。
中に入っていくと、何もかもがゴツくていかつい。むき出しの荒々しいコンクリート塊に圧倒されます。ありったけのモダニズム。これがBrutalism建築です。
ただ先ほど紹介したように、長さ100m越えのいかつい住棟に囲まれた中庭には優しい緑があります。とてつもないギャップです。シティの一画とは思えないほどの静けさに包まれています。
ここまでBarbican Estateの建物を見てきて、皆さんはこの団地に住みたいと思いましたか?ちなみに今回は近代建築史を専攻している修士の学生と、古代ギリシャ等の美術史を学んでいる学部生の2人と一緒に訪問しましたが、近代建築史専攻の友人は"Oh I love this!"を連発し、もう1人は絶対に住みたくないと両極端の反応をしていました。それだけ意見が分かれる建築だと思います。
住民達が守ったBarbican
Barbican Estateの雰囲気がわかったところで一旦まちあるきを中断し、今回のまちあるきのテーマである「住民達の理想の追求」について考えてみます。さて、このようなモダニズム建築による住宅団地は、見ていて圧倒される一方で、治安を悪化させ地域を荒廃させると批判されてきました。その代表例とされるのが、1956年に完成したアメリカ・セントルイスのプルーイット・アイゴーです。もともとあったスラム街を解体して建てられた住宅団地でしたが、建設前よりさらに治安が悪化し、犯罪の温床となったため、約15年後に爆破解体されました。その大きな要因の1つが、ストリートに人の目が届かなくなること。プルーイット・アイゴーには共有スペースにも死角が多く、犯罪を助長させました。そして、戦後イギリスでBrutalismに基づいて建設された多くのSocial Housingも治安が悪化する傾向にありました。ではなぜBarbican Estateは現代でも高所得者層の住宅地として機能しているのでしょうか。
まずBarbican Estateのプロジェクトは他のSocial Housingよりも予算があり、かつ丁寧に設計されたという点が挙げられます。前述の通り、Barbicanはシティ政府によって建設されたため、アメニティや共有空間に潤沢な資金を投入することができました。特にBarbican Centreのようなコミュニティスペースが作られ、オープンスペースも丁寧に設計されたことで、住民同士の交流が生まれ、目が行き届くようになりました。
しかし、それ以上にBarbicanを支えてきたのは、そこに住む住民達でした。特に初期に入居してきた人々は、CPBの建築家達の「都心でゆとりのある中流階級のライフスタイルを実現する」というビジョンに共感する人々であり、CPBとは異なる方法でそれを実現する努力を続けてきました。例えば、Barbicanでは写真12(写真8・10も)に見られるように多くの家庭がバルコニーに植栽を置いており、これにより建物の見た目が(少しだけ)優しくなっています。また、Barbicanには建物への落書きや汚れがほとんどなく、オープンスペースも常に整然としています。これらは、Barbicanが他の荒廃したSocial Housingと多くの点で似通っていることを憂慮した住民達が、Barbicanがそれらの建物と同じに見えないように、また同じ運命をたどらないように、住民のための植木まとめ買いセールを実施して植栽を普及させたり、行政に定期的に落書きの清掃を依頼したりしてきた結果です。またこの他にも、犯罪抑止のため街灯をより明るくするよう要望を出したり、見た目をよくするためバルコニーで布団や洗濯物を干さないというルールを定めたりしています。
また住民達は建築家達の目指した理想のライフスタイルを「再解釈」し、生活空間を改変してきました。まず入居が開始されたばかりの1970年代前半、空いたままの部屋をバー付きのクラブハウスへと改変し、住民達が共通の趣味等を通じてネットワークできる場所を作りました。またスポーツ施設が足りないと感じていた人々は、前述の敷地内にある女子学校に直接交渉し、学校で利用しない時間帯に施設をできることになりました。そして、子供たちのための遊び場がないことを憂慮した人々によって、Terrace Blockの下のスペースに遊び場が作られました。
これらの住民達の行動は、様々な点において以前第1弾で紹介した「ジェントリフィケーションの第一波」との共通点があります。例えば、比較的若い専門職(中流階級)の人々が入居し、組織を作って活動したこと。歴史的な建築の保全に対する意識が強いこと(住民達は歴史的町並みが残るシティの再開発プロジェクトに対して反対運動を行った)。クラブハウスに見られるように、趣味を通じたコミュニティを作ろうとすること。そして子供の遊び場のケースのように、自分達の文化的価値観を次の世代に伝える意識が強いこと、などが挙げられます。ジェントリフィケーションについて、詳しくはこちらの記事をご覧ください。第一波が起きた場所として有名なBarnsburyもいずれ記事にしたいですね!
このように、住民達がCPBの建築家達と同じように理想のライフスタイルを追求し、積極的に活動をしてきたからこそ、Barbican Estateは他のモダニズム建築による住宅団地のように荒廃することなく、現在も多くの住人に愛されています。最後に著名なデザイナーTom Dixtonの言葉を引用して、まちあるきに戻りましょう。
Barbican Centreとその他諸々
さて、中庭から歩みを進めると、コミュニティの中心であるBarbican Centreに着きます。ここからはセンター内の様子を紹介していきます。
まずは3階のアートギャラリーへ。"Body Politics"と題してアメリカの現代アーティストSchneemann氏の作品が展示されていました。正直、本当に強烈な作品ばかりで驚かされました、、、。
ギャラリーを出ると、ホール、劇場、映画館、図書館などがあります。
さて、Barbican Centreを出ると外は夕暮れ時。明かりのつき始めたBarbican Estateは先ほどとはうって変わって優しげな雰囲気が出てきました。
バンクシーのGraffiti
これにてまちあるきは終了!と思いきや、トンネル内の車道にてバンクシーのGraffiti(落書き、ストリートアート)を発見しました。
2人のバンクシー風に描かれた警察官が黒人の男性にStop and Search(職務質問)をしており、男性と同じ画風で描かれた犬が心配そうに見つめています。また、左側にはまた別の画風で描かれた人間風の何かが黒人男性に王冠をかぶせようとしています。
この男性や犬は1988年に28歳で亡くなった黒人アーティスト※、ジャン=ミシェル・バスキアの画風を真似して描かれています(ちなみに左側の人間風の何かはキース・ヘイリングの画風)。バンクシーのinstagramによると、このGraffitiは2017年9月に描かれたもので、Barbican Centreのギャラリーでバスキアの展示が行われる直前でした。ここ数年、特定の人種に対する執拗なStop and Searchが社会問題になっていることを踏まえると、偉大なアーティスト(王冠が象徴)であるバスキアでさえ、(昔はもちろん)現代に生きていれば黒人というアイデンティティによってこのような不当な扱いを受けるだろう、というバンクシーのメッセージが読み取れます。
また、同じ日にBarbicanに描かれた別の作品のキャプションで、バンクシーは次のように書いています。
バスキアはそのキャリアをGraffitiなどのストリートアーティストとしてスタートさせました。Barbican Estateはそのバスキアの大規模展示をするというのに、いつも(落書きであふれたSocial Housingのように見えるのを嫌がって)Graffitiを消そうとする。つまり、バンクシーはこの作品をBarbicanに描くことで、人種差別へのメッセージを発するだけでなく、Graffitiを消して綺麗に保つことで中流階級の優雅な住宅団地であることを主張しようとしているBarbican Estateを皮肉っているのでしょう。先ほど紹介した住民達の運動を思い浮かべると、非常に興味深いですね。そしてBarbican側は、その意図を知ってか知らずか、このGraffitiを例外的にアクリル板で保護して保全したのでした。
※バスキアは「黒人アーティスト」と呼ばれることを極端に嫌っていましたが、今回は文脈上そう表現せざるを得なかったことをお許しください。
5. 住む行為がただ住むこと以上の意味を持つ文化
最初に紹介したように、現在Barbican Estateの家の平均価格は£1 million、日本円で1億6500万円以上と言われています。
これほどBarbican Estateが人気な理由として、ロケーション、文化施設の充実、建築的価値とともに、コミュニティの価値が言及されます。ロンドン中心部ではほとんど得ることのできない強いコミュニティ意識、それを育んだのは、若き3人の建築家が示した理想のライフスタイルと、それに共感した初期の住民達でした。
日本にも、ちょうどBarbicanと同じ時期に作られた団地がたくさんあります。しかしその中に、今もこれほどの人気を得ているものはありません。それどころか、築50年, 60年を迎え、解体されるものも増えています。日本の住宅は時間が経つほど価値が下がるが、イギリスでは時間が経つほど価値が出る、という一般論の議論は後の自分に筆を譲るとして、Barbican Estateは都市や建築に関わる者に重要な示唆を与えています。
Barbicanを守ってきたのは、建築家の掲げた理想と、それに共鳴した住民達でした。理想、そして信念を持って作られた都市・建築こそ、時の流れに耐え、長きにわたって愛され続ける。だからこそ、私達都市や建築を学ぶ学生は、人間はどのように暮らせば幸せになりうるのか、そのために都市や建築はどうあるべきなのかを、考え続けなくてはならない。50年後くらいに、その時にもきっと残っているであろうこの団地に、また出会いたいと思いました。
訪問日:2022年11月4日、5日
執筆日:2022年11月16日
参考:
・City Matters. (2022). The Barbican remains one of London’s most-popular places to live. [最終閲覧:2022年11月13日]
・City Matters. (2018). Barbican’s Banksy artworks become permanent fixtures. [最終閲覧:2022年11月13日]
・Alison, Jane; Ferrari, Anna; Kenyon, Nicholas; Saumarez Smith, Otto (2014) Barbican: Life, History, Architecture. Barbican Art Gallery, Lodnon.
・Nash, Logan. (2013). Middle-Class Castle: Constructing Gentrification at London’s Barbican Estate. Journal of Urban History, 39(5), pp. 909–932.
The Guardian. (2017). Two new Banksy artworks appear on wall of Barbican centre. [最終閲覧:2022年11月13日]