わたしのいろんなこと



この間の土曜の深夜。
お風呂とスキンケアを済ませた完璧状態でお酒を飲みながら、「ずっと謎だったんだけどタイプってあるの?」って不意に聞かれたことからスタートして、友人達にすらもしっかりとは話していないほどの自己開示をした断片的記録。
お酒飲まなければもう少ししっかり覚えていたのだろうけど、お酒飲んでいなければ決して話さない内容。


まず、タイプ云々について。
わたしのタイプは「すきになった人」。
なので有無で答えるならば後者だろう。
ただ、その前に初対面時点で「人としてこの先付き合えるか」のラインが恋愛関係であれ友人関係であれ仕事関係であれ存在する。そのラインは、簡単に書くなら無闇矢鱈に常識が外れていないか。ただそれだけ。
そこから話す感覚や考え方etc合う人を見極めて更なる関係性を築く。その感覚が合う人がなかなかいないから、わたしの人間関係は少数精鋭。こんな私に変わらず付き合ってくれる友人たち、本当にありがとうねの気持ち。




ここから先は自己開示の話。


まずわたしのわたしに対する捉え方について。
わたしは定義するとしたら「異端」だと思っていて。
それは今までの自分がある環境下に馴染めなかったから。そこに物理的居場所はあっても精神的居場所はなかったから。その精神的居場所があるのは大抵年上や考え方が大人な人がいる場所だったから。自分の考え方や価値観を伝えても2割くらいしか伝わらないことの方が多かったから。その場に合わせて擬態するけど、本来は大抵多数決の少数派だったから。「普通」や「みんなのように」は何事もいかなかったから。
いつからか置かれた状況での自分の振る舞い、言動、考え、色々なものを俯瞰する癖が出るようになって、同じ年齢層の大グループの中では「異端」だろうな、と自然に。


次に境界線について。
15〜20歳の多感期において留学をしたりホストファミリーの体験をしたりして「終わり」を身をもって体感してきたこと、あまりメンタルが強い方ではないこと、「1人で強く生きていく」が念頭にあること。全てが相まって、無意識下で自己防衛のために境界線を張っている。
例えば、恋愛。わたしにとって恋愛は+α要素になる。「相手がいたら私生活が更に充実するけどいなくても大丈夫」の要素。そこが「いなくてはならないもの」にならない(なれない)のは「終わり」がもし万が一来てしまった時に、「1人で強く生きていく」ため。そして自分の精神を一定に保つため。
例えば、趣味。推し活だったりこうして書くことだったり読書だったりに私生活を投げ打ってまで没頭しない(出来ない)のは、推しの卒業に耐えるため。書くことを嫌いにならないようにするため。本を最終の安寧の地にとっておくため。何れかのすきに「終わり」が来た時に自分を守る、許すため。



次に先述した俯瞰する癖について。
いつからするようになったかは定かではないけれど、常に斜め後ろから自分が自分を監視している感覚。
そのせいで、羽目を外せない(いい意味で馬鹿になれない)。恋愛面の境界線を越えられない。ずっと誰かが貼ったレッテルに従っている。
周りが楽しそうにわちゃわちゃしていても「そんなわちゃわちゃする性じゃないし」って思って、
全部曝け出しても受け止めてくれる人がいるのに「甘え方も甘えていいのかもわからない」って思って、
誰かに真面目と言われればその場では「真面目に“いなきゃいけない”」義務が発生する。
自分の考える理想(虚構)の自分になるために自分を監視して、軌道修正を常にかけ(られ)ている感じに近い?
この俯瞰癖を辞めて境界線を飛び越えたら、違うわたしになれそうなのだけれど。


最後に、言語化について。
「自分はこんな人間です」をその時々の自分に合わせて伝えられるようにしておきたい、というわたしの心構え。分人思想の面から、接する人によって人が変わるところがあるから、誤解を招く前にこういうひとです、と言えるように、人を変えすぎて自分が分からなくならないように、言語化して自分の中に持っておきたいというスタンス。「そこまで自己分析した上で言葉で説明出来るの偉いよ」って褒めてもらったけれど、これもある種の自己防衛だったりするのかな、とか今更。
後は、「今どう思って何を感じるのか」をたくさん恩師が引っ張り出して言葉にする練習をしてくれたことも影響している。モヤモヤを整理することが出来なくて苦しかった時期に「文字に起こしてみなさい」と勧めてくれて、認めてくれたから、こうして言語化して自分を表すことが出来ている。そしてわたしの数少ない武器にもなっている、気がする。


あと何話したっけ、お酒って怖い。過去1の話題だったのに…😌


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