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受容と拒絶はコインの裏表

畏怖の感情にはPTSDを癒やす効果があると言われますが、太平洋に沈む夕陽にありがたさを感じ、神を見るのは、生き物としてとても自然な理に思えます。その圧倒的な存在を前に、人間の力への信奉や期待なんて容易く霞みます。

三宅島の営みに触れながら、
「生きているから此処にいる。それだけのことだ。」
と言われたような気がしました。

逃げる。遠ざける。無くす。変える。
そういうやり方が有効な時も確かにあります。
でも、防衛ベースの有能感が生き方を狭くすることもあるのではないでしょうか。

このところ私は、拒絶があるからこそ受容は可能になり、受容のためにこそ拒絶が並列しなければならないのだと考えるようになりました。

「抑圧・阻害と、抑制やコンテインは別物である」と言ったのはピーターでした(『身体に閉じ込められたトラウマ』)。これは、二者間や集団の力学、あるいは自然(Natureのみならず、自分の老いや変化なども含む)との関わりにおいても同様ではないかと思うのです。

セラピーの文脈では、昔から枠組みや境界線の大切さが言われてきました。それは、人間は何もかもすべてを受容する力を持ちえないからでしょう。【閉じるからこそ開ける。開くためにこそある部分を閉じる。】そうしなければ、我々は世界や他者と関係を結べません。ひとつひとつの細胞が膜に包まれ、ある時には開きある時には閉じるからこそ健やかに機能するのと同様に。

全受容と全拒絶の間には無限のフェーズがあります。無自覚なまま反応的に生きてしまえば、両極を行き来するだけの劇場型の毎日になってしまうことでしょう。それは自分にとっても周囲にとってもハイリスクです。

それにもかかわらず、インターネットの密な網に覆われた現代は常に衆目に晒されているのと同じです。動物としての我々の心身にとって、その状況は危機として感知されていることでしょう。

天網よりも密な網の下で息をするのに、どうするのが手っ取り早いでしょうか?おそらく、自分と同じ網の下の個体数を許容範囲まで減らすのが、いちばん簡単でしょうね。

危機を前にした神経系は防衛的・反応的・易傷的ですから、許容量はどんどん小さくなります。その状態で友好的な態度を保つのは簡単ではありません。「身内」を特定して「部外者」は拡大するでしょうし、「身内」にだけ受容的になり、「部外者」には排他的になるでしょう。

セラピーでは「反応する前に意思で選択ができる余地を生む」ことをひとつの目標にします。その考え方は、日常の過ごし方にも活きるでしょう。現代の分断や張り詰めた緊張感は、我々を覆う網の目を粗くするだけでも、いくらか緩めることができるのではないでしょうか。なにせ頭上の網は、自分の手が加わって編み上がっているのですから。

「周囲の人は自分と同じ対象に閉ざし、自分を含めた全方向に受容的でいてくれる」、などというのは儚いファンタジーです。そして、我々の神経系は常に揺らいでいて、大きく開こうとすればするほど、必ず大きく閉じようとする動きが生じます。

湧き起こる拒絶反応の背景には、受容への期待や自らの防衛があるかもしれない、という視点は、持っていても良いのではないでしょうか。動物的な反応に先んじて、人としての意思で選択するために。

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