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君の悪い夢も私が全部食べてあげる / 241021 / 三秋縋『君の話』

三秋さんの作品を初めて読んだのは、高校3年生の冬だったと思います。受験勉強の隙間に(あるいは勉強時間と睡眠時間を削って)私は読書をしていました。当時の私は、今思えばなんてことない、子どもにとってありがちな悩みを抱え、人生に薄ら絶望していていました。そんな中で手に取った本が『三日間の幸福』でした。

そこには私が思い描いていた理想の物語がありました。伝えたい思いが、すべてそこに書かれていました。先生の作品は美しい標本のようでした。誰もが一度は思い描いたことのある理想の世界がいつも本の中にそっと静かに佇んでいるように感じます。けれど同時にそこにあるのは、ただ温かく幸せなだけの記録ではない、見せかけの永遠です。あとがきに書いてあったことがずっと忘れられずに残っています。今でも私の柔らかい部分に、入り込み、いつでも取り出すことができます。

一口に馬鹿といっても実に様々な種類の馬鹿が存在しますが、ここで僕のいう”馬鹿”は、自ら地獄を作りだす人々のことです。そうした”馬鹿”の特徴として、まず、「自分は幸せになれない」と強く思い込んでいる、という点が挙げられます。より重度になると、その思い込みは「自分は幸せになるべきではない」にまで拡張され、最終的には「自分は幸せになりたくない」という破滅的な誤解に至ります。  

彼らはこの世のすべてが地獄だと思っていますが――実際のところ、彼らが進んで、自分のいるそこを地獄にしているというだけなのです。

僕はこうした馬鹿を、死ぬまでには治るものと考えているのです。より正確にいえば、「死の直前になって、初めて治るだろう」というのが僕の考えです。

もう遅すぎると感じることが最近よくあります。焦っているはずなのに、明日のことが気になっているのに、その不安を消すために布団に潜ってしまうのです。そうしてまた朝が来て、昨日と何も変わらないまま一日が始まります。私はあまり思い詰めたりするタイプではありません。けれど最近、映画とか小説とかフィクションを見ると、思いがけずひどく落ち込んだり、考え込んだりしてしまいます。仕事中あるいは通勤電車の中で、ふっと甦り、どうしようもなくなってしまう。思考がここではないどこかに攫われます。現実の出来事よりもフィクションの方に心動かされるのは少し不健全な気がしますが、歳を取るにつれて、感情が少しずつ動かなくなっているのを感じます。殺人や戦争やそんな悪に心が慣れきってしまって、麻痺している、そう思います。

『君の話』先日読みました。時間がなかったのではありません。ただ終わることが勿体無かったのです。『さくらのまち』が発売するまでの六年という空白が耐えきれなかったのです。美しく残酷な物語でした。決して完璧なハッピーエンドとは言えない。けれど確かに「人生最高の瞬間」の煌めきがそこにはあります。私たちの人生は長く単調で、ある日「落とし穴」に落ちることがある。けれど私たちは「馬鹿」になってはいけない。私たちは不幸であるかもしれないけれど、そればかりに目を向けては行けない。死ぬ直前になって拾い損ねたを幸福を後悔することがあってはならない。



夏の終わりが近づくと「今年も何もできなかったな」となぜか少し切ないような気持ちになります。けれどその少しの後悔をどこか楽しみながら毎年過ごします。将来を語った幼馴染も、文通をした相手も、復讐を共にした相手も、私にはいないけれど、私の知らないどこかでそんなことが起きていたら、あるいはこんな世界でも何かまだお伽話のように素敵な出来事が起きるのでは、そんなことを考えずにはいられないような、夏の魔法をかけてくれる先生の作品が、ずっとずっと大好きです。


私の中で三秋縋さんの作品の勝手なイメージソングはずっと『遊園市街』と『沙上の夢喰い少女』です。こちらも良いので是非。

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