足りない位がちょうど良い
ーオレとアチキの西方漫遊記(41)
京都・嵐山のメーンストリートを一望できる嵯峨とうふの専門店の二階。食後、熱いお茶をすすりながら、京都で過ごした時間を振り返る。当初の予定通り、渡月橋(京都市右京区)を眺め、京料理ランチを楽しんだ。世界文化遺産の天龍寺(同)にも訪れ、それなりに充実感がある。ただ、渡月橋を除き、味わい尽くした感がない。だが、それ位がちょうど良い。また京都に行きたいと思える。
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やり残し
京料理ランチを楽しむという初期の目標(※)は達成した。豆腐料理、湯葉料理、そして、おばんざいなど、夫婦揃って無言でひたらす食べるほど美味しかった。ただ"食べる"というより、むしろ"がっつく"といった方がふさわしいかったかもしれない。あっという間に食べ終えた。
あまりにお腹が空き過ぎていたことが大きい。朝からほとんど何も食べていなかった。途中、それぞれコロッケを食べ(※)、奥さんはさらにケーキを食べた(※)が、胃の大きさに比べれば微々たるものだ。料理を楽しむというのは味わってこそが持論だ。その意味ではやり残しがある。
天龍寺についても同じ感覚だ。この古刹の代名詞でもある曹源池や百花苑といった庭園をはじめ、「雲龍図」が描かれた法堂など、有料区画はショートカットしている。無料で拝観できる八幡社や松厳寺などだけでも、名刹にふさわしい佇まい。だからこそ、どうしても"片手落ち"に感じてしまう。
後になってようやく気付くのだが、以前、この歴史ある寺を訪れた覚えがある。家族旅行だったか、修学旅行だったか、あるいはその両方か。詳しくは両親に訊ねてみることにしよう。いずれにせよ、次回は庭園や法堂などを眺めながら、当時と今の自分の違いについて考えてみたい。
収穫
渡月橋は現時点で満喫したと言える。今回の旅行中、高知県を流れる四万十川で、たくさんの沈下橋(ちんかきょう)を眺めてきた経緯(※)もある。石造りの沈下橋が秘境感にあふれる一方、木造りの渡月橋の眺めは「雅」がにじみ出ているなど、さまざまな角度から気が済むまで物思いに耽った。
奥さんも渡月橋には満足したようだ。中学校の修学旅行以来2度目(※)ということで、いろいろ考えることもあったらしい。当時は級友とおしゃべりばかりで、景色を眺めることもほとんどなかったという。今回と当時を比べてギャップがあったかを尋ねると、がっかりな答えが返ってきた:
「圧倒的に外国人観光客が増えた」
やり残したことは京料理ランチや天龍寺にとどまらない。保津川下りに乗り、竹林の小径も通ってみたい。どこを撮っても、きっと写真映えするだろう。そう考えると、これまで国内旅行の行き先として候補にすら挙げなかった京都が、心の中で俄然そのポジションを上げた気がする。
今回、京都に立ち寄ったことで得た収穫だ。(続く)
(写真〈上から順に〉:奥さんのお待ちかねの京料理ランチ=りす、手桶くみあげ湯葉に舌鼓=同、天龍寺・曹源池=フリー素材、竹林の小径=同)